一橋大学「連合寄付講座」

2007年度“現代労働組合論I”講義録

第3回(4/27)「労働組合とは何か」

「労働運動の歴史」

ゲストスピーカー:高木郁朗 社団法人教育文化協会理事

1.ナショナルセンターの変遷と連合の役割
  労働運動の歴史は、労働運動の中心になる労働組合だけ考えても、イギリスでは、産業革命の一番盛んだった1760年代頃、日本では1890年代頃に、労働組合運動の起源があります。それぞれ二百数十年とか、百数十年の歴史を持っています。今日の講義でそれを全部しゃべることはできませんので、今日はいわば労働組合の原型を話そうと思っていました。その後、浅見先生から話がありまして、そうは言っても古い時代の話をしても学生の皆さんはあまりおもしろくないし、現状を少し知りたいという注文がありまして、「労働組合運動史の略年表」「戦前の労働組合」「戦後労働組合中央組織の変遷」というのをつくってみました。
  労働組合中央組織(ナショナルセンター)はいろいろな産業別の労働組合が集まって1つの全国的な組織を作っています。労働組合運動全体の司令塔、結集軸です。いろいろ経過はありましたが、1987年に「民間連合」が結成されました。民間の労働組合が、全部ではありませんが、できるだけ多く集まってつくったのが民間連合です。その2年後の1989年に公務員などの組合も一緒になり、「新連合」、現在の連合(日本労働組合総連合会)ができました。2009年には結成20周年を迎えようとしています。
  しかし、歴史的にも労働組合が1つになって活動するということは意外に少ないのです。先進国の労働組合運動でもそうです。1つのナショナルセンターでやっている国は典型的にはイギリスです。逆にいくつかのナショナルセンターに分かれて、しのぎを削っている、対立したり、共闘したりしているところは、フランスやイタリアです。1つの大きなナショナルセンターがあっても、みんながそれにまとまっているわけではないという国もいくつかあります。ドイツは西ドイツの時代からドイツ労働総同盟に大部分の労働組合が参加していますが、小さいながらキリスト教系の組合があります。スウェーデンもLOという、主としてブルーカラーのナショナルセンターがありますが、ホワイトカラーの労働組合のナショナルセンターが別にあります。アメリカではAFL-CIO(アメリカ労働総同盟・産別会議)という組織があります。これは1955年に統一して1つのナショナルセンターになりましたが、実は時々産業別労働組合が脱退したり、また元へ戻ったりしています。どの国でも労働組合は1つにまとまれていません。残念なことだと思いますが、労働組合が一国の労働者を代表して統一して経営者やその時々の政権に対して、いろんな要求をぶつけたり実現したりするということはなかなかできていません。このようなナショナルセンターの歴史をみるのは労働運動史の重要なポイントの1つです。
  日本もそうです。ずっと分裂の歴史をたどってきました。資料の戦後のナショナルセンターの系譜をみて下さい。たとえば「新産別」という組織があります。数は10万人ぐらいでしたが、この歴史を勉強していただくと、なかなかおもしろい組織です。
  系譜の中の「総評」は1950年に結成されました。当時の労働組合を全部まとめてやろうということで作られた組織でした。しかし、分裂して、1964年に「同盟」という総評の次に大きな組織が結成されました。総評と同盟はお互いにいろんな点で対立をしあっていました。そういう対立にできるだけ加わらない、自分たちは中立だということで1つのグループを形成した組合がありました。それが「中立労連」という組織です。以後、民間連合まで「労働4団体の時代」と言われていました。
いろいろ経緯があって全部が全部連合に参加したわけではありませんが、4団体という形で対立していた組織が統一した一番大きな理由は、日本の労働者を全体として代表して、政策に影響を及ぼしていく、そのためにはバラバラになっていたのでは大きな影響力を及ぼすことができないという考えが普及してきたからです。
  労働者の生活は果たして賃金を上げるだけでほんとうに守れるでしょうか。仮に、たくさん賃上げを獲得しても税金でいっぱいとられてしまうとか、さしあたりその賃金で暮らしをしていても将来の社会的保障が全くないということでは、労働者の生活はほんとうに保障されたものとは言えません。できるだけ失業を少なくするような経済政策をとらなければいけないじゃないか、あるいは、様々な問題を抱える労働者が人生のいろいろなリスクにあってもちゃんと暮らしていける、失業や老後、病気だとかに対応できる社会政策をきちっと作り上げていくことがないと、労働者の幸せは絶対に守ることはできません。労働組合が政策的な影響を及ぼすことで初めて労働者の暮らしを守っていくことができます。
  こうした制度や政策にかかわる問題を解決するために、できるだけ多くの労働組合が1つにまとまって力を結集していこうということでできたのが、今日の連合です。日本の労働者の様々な政策面での要求なり、あるいは制度を作り上げていくということが基礎となって連合が成立しました。現在でも連合以外に全労連や全労協という比較的小さな中央組織がありますが、労働4団体時代、対立の時代に、一応終止符を打ちました。
  たぶん労働運動史を勉強するということは、特に日本に関して言いますと、今申し上げたことができあがっていくプロセスを検討していくということが1つの筋道になると思います。しかし、今日はそれを全部やれませんので、最後にそういう段階に到達しているということを皆さんの頭に入れてもらった上で、もう少し原点を振り返って労働運動史を見る視点を皆さんと一緒に勉強していきたいと思います。

2.労働運動と労働組合運動
  次に労働運動史のいくつかの問題点を視点という形で申し上げていきたいと思います。

労働運動は富の分配をめぐる運動か?
  1つは、労働運動というのは決して狭い運動ではないということです。労働運動の歴史を見る場合に重要なことは、労働者が自分たちでがんばって、どうやって人間として生きてきたのか、という視点です。
  批判をする材料として取り上げますが、大畑裕嗣さんらが、『社会運動の社会学』(有斐閣)という本をお書きになっています。そこに何人かの方々が社会運動の歴史をお書きになっています。この本の第1章や第12章などに社会運動の歴史が出てきます。この人たちの言っている結論をまとめると、「労働運動は富の分配をめぐる運動であり、20世紀前半までは社会運動の中軸であったが、今や過去のものとなり、原発反対運動など産業社会の論理の根幹にふれる運動が中軸となった。」こういう結論を出されています。これは労働運動史あるいは社会運動史のどちらから見ても、すべて間違っていると思います。労働運動はたんに富の分配をめぐる運動であったかというと決してそうではありません。ここまでは労働運動、ここから先は極端に言えば原発反対運動などという、とらえ方では、決して現在のいろんな社会問題を解決していくことにはならないと思います。このような結論は、労働運動は過去のものだから、あんなものは消え去って良いのだ、こういうような主張に手を貸すことになります。書いた人たちがそう思っているかどうかは知りませんけれども、これは労働運動を消し去りたいと思っている人たちに非常に有利な結論になるわけです。社会的に悪い影響を及ぼす議論だと思うのです。
  これは何もこの人たちだけではなくて、アメリカの社会運動の文献などを読みますと、同じようなことがいっぱい書いてありまして、1つの研究者の傾向だと考えても良いかもしれませんが、こういう考え方は間違っているということを申し上げておきたいと思います。
  しかし、社会学者が全員こんなふうに考えていると思わないでいただきたいのです。イギリスの社会学者のロナルド・ドーアという人がいます。『働くということ』(中公新書、2005年)や『誰のための会社にするか』(岩波新書、2006年)を書いています。もともとロナルド・ドーアという人は、日本の工場の聞き取り調査などをやられて、すぐれた著作をお書きになっている方です。80才になっても非常に元気な方で、ドーアさんの本を読むと社会学者も立派なものだと思います。

労働運動とは何か?
  先ほどご紹介した『社会運動の社会学』をお書きになった人々の問題点は、労働運動とは何かを理解されていないことです。労働運動は、非常に広い分野を含んでいます。労働組合の運動はその一部、中心ではあるけれども全部ではないということです。まず労働運動とは様々な形で起こる労働者の運動のすべてを含んでいるという理解が大変重要です。これは歴史を調べていただくとすぐわかることです。労働組合が発生する以前にも労働者の運動はありました。

ラダイト運動
  イギリスの産業革命時代に「ラダイト運動」と言われる、労働者たちが機械の打ち壊しをやる運動がありました。産業革命で機械がどんどん出てきて、大工場制度が発展してきます。これまで手工業的にやってきた職人的な労働者がどんどん職を奪われていきます。これに対して、悪いのは機械だというふうに考えた人々が機械の打ち壊しをやります。自分たちの理想の王国をつくるのに、ラッドという少年王がいて、この下に結集するのだという伝説の王様を作り上げて運動したことからラダイト運動と言います。中身は機械の打ち壊し運動です。
  これは考えてみれば間違っています。機械が悪いのではありません。カール・マルクスは『資本論』の中で、このラダイト運動に関して、「機械が悪いのではない。機械の背後にいる人間が問題なのだ」と書いています。つまり同じ機械でも誰がどのように利用し、使うかによって、その機械の良い点も出てくるし悪い点も出てくると言っています。ラダイト運動が機械そのものを問題にして、機械の背後にいる人間、つまり工場をつくって機械を据え付け、労働者を雇い入れて、利潤を上げていくシステムを問題にしなかったことを批判しています。しかし、目に見える機械が自分たちの仕事を奪っていくことに対して運動をおこしたのは、労働運動として非常にあり得ることだし、これらの人々の運動はその後のいろんな機械、工場のあり方に影響を及ぼしたと思います。

チャーチスト運動
  1830年代後半にイギリスで「チャーチスト運動」がおこりました。チャーチストというのは、チャーター(憲章)を実現するよう頑張る人々のことです。要するに、政治的な憲章の実現を図る労働者たちの運動と言って良いと思います。これは普通選挙権の実現を目指す運動でした。
  皆さんは、イギリスは議会主義の祖国だ、と学ばれたと思います。しかし、19世紀前半までは、基本的には税金を納める人たちが有権者でした。今では皆さんも物を買うために消費税を納めていますから、みんな納税者です。しかし、当時の納税者は、財産税を払っている資産を持っている人たちだけだと理解されていました。チャーチスト運動は、みんなで、どんな人でも有権者としての権利を持つべきという考え方で労働者たちがやった運動です。ただし、「どんな人でも」の中に女性が含まれていないという大きな問題がありました。これは労働組合ができて以降でも、労働組合運動とは別に、あるいは労働組合が支援して労働者の政党をつくったり、相対的に労働者寄りの政党から国会議員を出したりして、労働者が政治的な権利を求める運動や、労働者のための政策を実現する運動をしてきました。これは今でも続いています。

高島炭坑暴動・雨宮製糸スト
  日本の場合をみてみましょう。長崎県の高島炭坑。今は閉山してありません。ここの労働者たちは、明治維新直後から非常に悪い扱いに耐えかねて何度も暴動を起こします。軍隊がやって来て、それを鎮圧したという歴史もあります。これは日本に労働組合ができる以前に行われた運動です。
  雨宮製糸ストは、日本で最初に行われたストです。1886年のことですから、120年ほど前です。記録されている限り日本で最初のストライキは女性の製糸労働者たちが行いました。これは賃上げというよりも、労働者の扱い方に反対するというところに特徴があります。これは今もある話なのですが、労働者がトイレに行く時間も制限されるなど、人間的な扱いをされていませんでした。これは高島炭坑の場合もそうです。そういうことに対して、この雨宮製糸の場合は暴動を起こす代わりに、近所のお寺に立て籠もるという形で抵抗しました。

人間的な権利を主張する労働運動
  労働組合運動の起きる以前、あるいは労働組合の活動とは別に労働者の運動があったという事実は、労働運動というのはそれくらい広いということを示しています。今でも、労働組合以外にもいろんな形で労働者の運動というのはあり得ます。その内容は、先ほどご紹介した社会学者が言うように、たんに富の分配を求めて起こしたわけでは決してありません。人間が生きる権利、人権、政治的権利。つまり産業社会の中で、雇い主と雇われる人とが分かれて以降、いろんな形で抑圧されている人間的な権利を主張する運動が労働運動として存在してきたし、今も存在していると考えなければいけないと思います。たんに富の分配をめぐる運動ではなく、人間として生きていくうえでの運動です。労働運動は産業社会の論理の根幹に初めから触れてきた運動です。そのように理解しないと、歴史的な理解としては間違っていると思います。皆さんも労働運動を見る場合に、その点を頭に入れていていただきたいと思います。労働組合運動は、単なる富の分配、あるいは所得の分配を求める運動ではなく、人間が人間として生きていくための運動の1つとして、もっと言えば中心として、今日においても中心的な役割をになっているのです。

ディーセント・ワーク
  次回の講義でILO理事の中嶋さんがILOの話をされると思います。その中で出てくるのが、「ディーセント・ワーク」です。ディーセントという言葉は、オックスフォードの英英辞典で調べてもなかなか概念がつかみにくい言葉ですが、「人間らしい労働」と訳すのが一番良いと私は思います。これは単に賃金を上げろとかいう話ではなくて、人間が人間としてちゃんと生きていけるための労働でなければいけないということを、このILOの言葉が象徴しています。労働運動はその全歴史を通じて人間的なものを求める運動だということを、ぜひ覚えておいていただきたいと思います。

3.原型としての労働組合
  労働運動は広い内容を持っていると申し上げましたが、中軸にあるのは労働組合です。労働組合もいろんな形があります。今日の日本にはナショナルセンターとして連合があります。連合のもとに、例えば自治体の職員労働者が参加する「自治労」、スーパーなどの流通産業の労働者が参加している「UIゼンセン同盟」、自動車の組み立てだとか部品に関わっている労働者が参加している「自動車総連」とかがあります。こういう組合を産業別労働組合、産別組織と言います。これとは別に、一般にコミュニティユニオンとよばれる個人加盟の組合もあります。
  日本の場合には、産別組織に各企業の中に存在する基礎的な労働組合が参加しています。例えば、「トヨタ労働組合」とか、自治労で言えば「○○県職員組合」とかです。全体としてはそういう構造になっています。日本の場合は一番末端に行きますと、企業単位の労働組合が軸になっており、「企業別労働組合」と言います。しかし、同じ企業の中でも、すべての労働者が労働組合に参加しているかどうかが問題です。例えばトヨタでは、期間従業員という「臨時的な」労働者が、臨時的と言いながら恒常的に多数雇用されています。こういう人たちは企業の従業員でありながら、トヨタ労働組合に入っていません。日本の労働組合の多くはそういうものから脱皮しようという努力をしていますが、現実にはまだ多くの場合、企業別の正規従業員組合という性格を持っています。そういうことを頭に入れておいて、少し労働組合の原型を見ておきたいと思います。

労働組合の原型:クラフトユニオン~働く上でのルールを宣言する
  労働組合の原型をどこに求めるかについては、労働運動史研究上でもいろいろな考え方がありますが、1850年代のイギリスの労働組合というものに原型を求めるのが良いと私は思います。皆さんが勉強されるとすれば、労働運動研究の世界で最初の頃の人たちであるウェッブ夫妻(シドニー・ウェッブとベアトリス・ウェッブ)の『労働組合運動史』(飯田鼎ほか訳、日本労働協会)という本をお読みになると良いと思います。原著は1894年に出ましたが、その改訂版が1920年に出ております。この中で、ウェッブが紹介している「新型組合」を、労働組合運動の原型としてとらえて良いと思います。これは「クラフトユニオン」です。クラフトというのは職能です。つまり熟練的な能力を持った人たちが職業別に結集している労働組合です。同じ職業に就いている人ならどの企業に属していようと、どの工場で働いていようとも1つの組合、例えば、「合同機械工労働組合」に結集して組合員としてやっていく、こういう考え方です。各企業の労働者が縦割りになっているとすると、ある職種全部を横につなぎますから、横断的な労働組合という特徴を持っています。この合同機械工労働組合などに見られる労働組合の活動は、今日においても通用する内容です。労働組合の原型だと考えて良いと思います。
  一番初めに何をやったかというと、働く上でのルールを決めます。これがクラフトユニオンの第一の特徴だと言って良いと思います。働く上でのルールを自分たちで宣言します。これは日本でも例があります。例えば大工さんたちの労働組合で「全建総連」という組織があります。これは地域ごとに自分たちの賃金は一律いくらですよと宣言します。守られるかどうかわかりませんけれども、自分たちで宣言して労働条件を決める、ほかのルールも決めていく、こういうところに特徴があります。経営者の反対によって、自分たちの宣言通りに実現しなかったらどうするかというと、「じゃあそんなところでは働きませんよ。はい、さようなら」といって出ていく。これは「ウォーク・アウト・ストライキ」と言います。こういうやり方で自分たちが宣言をしたルールをきちっと守らせていきます。労働組合の第一の機能は、働く上でのルールを決めていくことです。逆に、経営者は、労働組合のつくるルール通りにやったのでは十分に利益を上げることができないし、勝手に労働者を使うことはできないので、できるだけこのルールから免れたいと考えます。

ルールの形成と規制緩和の本質
  イギリスで1970年代、日本で1980年代以降流行り言葉になったのは、「規制緩和」です。「ディ・レギュレーション」です。この規制緩和というのは何からの緩和かというと、労働組合によるルール、労働組合が作り上げているルールを緩和させる、経営者がもっと自由にやるようにしたいということです。これが実は規制緩和の本質です。最近、「労働ビッグバン」なんていう言葉が使われますが、1850年代以降ずっと作り上げてきたさまざまな労働に関するルールをやめてしまおうということです。もちろん時代遅れになったルールは変えていかなければなりません。しかし、ルールそれ自体をできるだけやめさせ、経営者が自由に、個々の労働者との関係をつくりたいというのが規制緩和です。そういう意味では1850年代の原型になる労働組合がやってきたルールづくりを破壊しようという願望が、規制緩和とか労働ビッグバンという言葉に含まれています。
  しかし、なぜ、ルールの形成ができたのでしょうか。要するに、労働組合がルールを宣言して、それを守らない経営者のもとから、労働者が「はいさようなら」と言って帰ってしまいますと、経営者はルールを守らないと人を雇えなくなるわけです。さらにこれが進むと「クローズドショップ協定」を結ぶことになります。つまり、労働組合員でないと採用できなくなります。ドーアさんが書いていることですが、1850年代にこういう形で始まった労働組合が一番最高潮になったのが実は1世紀後の1960年代でした。皆さん、歴史は古い話だと思われるかもしれませんが、実は歴史というのは現代に生きることが結構多いのです。
  これは日本でもそうです。1990年代にバブルが崩壊して以降、日本でも企業が倒産したりして、大変なことになりました。実はその中で、失業しても労働者の生活がある程度は守られたのが炭坑の分野です。1990年代に最後の炭坑が閉山して失業者が出ましたが、1960年代につくられた炭坑離職者に関する制度、労働組合が作った制度が30年後にも生きていて、一定の役割を果たしました。
  個別の企業の労使関係を調べてみてもおもしろいです。例えば50年前のストの記憶がその企業の労使関係に影響するということがあります。ある時代のルール作りがそれで終わるわけではなくて、長期にわたって効果を及ぼしていきます。

なぜ、クラフトユニオンにルール作りができたか?
  それならなぜ1850年代の労働組合にルール作りができたのでしょうか。それは、クラフトユニオンだったから、ということです。ある職業の、しかも熟練労働者というのは、労働者全体の中では非常に少数です。不熟練労働者と比べてみると非常によくわかると思います。不熟練労働者、日本の現在で言えば、スーパーのパートタイマー労働者を考えてみますと、「あんた、もう来なくていいよ」と言われれば、「はいそうですか」と辞めざるを得ません。不熟練労働者というのはすぐ門の外に代わりが待っているわけです。誰でもできるわけですから代わりがいるわけです。ところが、ある種の熟練労働者はそう簡単に代わりを見つけることができません。つまり、クラフトユニオンがやったことは労働市場の独占でした。労働市場を自分たちが支配して供給を独占する、完全に実現したわけではありませんが、労働市場を支配する能力を持ちます。合同機械工労組はこの市場を支配するために職業訓練をやって次の世代の労働者を育成する、ということもやりました。だから、合同機械工労組の組合員をクビにしようと思っても、なかなか代わりが見つからないから経営者としても仕方がないということで、これがルール作りの非常に大きな武器として役立っていました。
  残念ながら日本の労働組合は、このような職業的な労働市場の独占をつくることはできませんでした。企業の中の「内部労働市場」での供給制限がまったくできないわけではありませんが、日本の労働組合の労働市場支配力は非常に弱いです。逆に言うと、労働組合が未組織労働者を組織すると、労働市場に対する支配力が強まるという関係にあります。

クラフトユニオンの特徴:相互扶助
  クラフトユニオンのもう1つの特徴は、「相互扶助」や「友愛」というお互いに助け合うという機能を持ったということです。例えば、ストライキをやって、「はい、さようなら」と出てきてしまいました、明日から飯が食えません。どうしますか。今なら雇用保険とかいろいろありますが、当時はありません。どうしたか。自分たちで相互扶助機能をつくりました。あらかじめ組合費の中にお互いに助け合う共済費用を設けました。そうして、「はい、さようなら」と出てきた労働者が飯を食えるようにする、ちゃんと生活できるようにする、ということをやりました。これもクラフトユニオンだからできた訳です。クラフトユニオンだから賃金は相対的に高い。そうやって労働市場を独占していますから失業も相対的に少ないので、可能になりました。
  1868年に、クラフトユニオンの連合体が世界で初めて、今も続くイギリス労働組合会議TUCという組織を作ります。最初の一番大きな課題は、すべての労働者が(残念ながら成人男子だけですが)選挙権を持つという普通選挙法の立法化でした。TUCは20世紀の初頭には労働党をつくりました。いろいろ問題はありますが、ブレア政権の労働党は、もともとは労働者の政治的な権利や政策を実現するための、労働者の代表としての意味をもっていました。

日本のクラフトユニオン
  日本で最初に労働組合がつくられたのは1897年です。それ以前にもなかったわけではありません。1897年に高野房太郎という人が、「労働組合期成会」というのをつくりました。それと関連して、「鉄工組合」「日鉄矯正会」「活版工組合」という組合がつくられました。いずれもクラフトユニオンです。クラフトユニオンで相互扶助機能を持ちました。日本の場合はまもなくつぶされていきます。これはイギリスよりも強い弾圧があったということと、十分に会費収入がなく、財政上の困難によってつぶれていったわけです。その後もこういうクラフトユニオンの試みがなかったわけではありません。今でもクラフトユニオンという名前の付いた労働組合はあります。UIゼンセン同盟に「介護クラフトユニオン」があります。これはヘルパーさんを組織しているので、同一職業の人たちを集めているという意味でクラフトユニオンですが、実態がイギリス的なクラフトユニオンかどうかというと疑問があります。

クラフトユニオンの弱点:排除の論理
  クラフトユニオンは労働組合の原型ですが、弱点があります。大変強い組合でしたが、弱点があります。1つの弱点は、産業構造や技術の変化によって熟練労働者の地位が変わっていくということです。もっとも大きな弱点あるいは問題点というのは、排除の論理を伴うということです。
  例えば、合同機械工労組には、ある1級とか2級とかの資格を持った熟練した機械工しか参加できません。不熟練の賃金の低い人たちはこの組合に参加できず、排除されています。しかし、日本でも同じような問題があります。企業別労働組合は正社員だけを組織して、排除の論理を伴っています。せっかく労働者の組織でありながら、一部の労働者しかそのルール形成の恩恵にあずかれません。今日の労働組合が克服していかなければならない問題です。それが労働組合の原型でも出ているといえます。
  同じことは相互扶助についても言えます。要するに賃金が高くて高い組合費を払える人たちが、高い組合費を払って相互扶助をしているというのでは、これも排除です。現在の日本でもそうです。要するに正社員で賃金の高い人たちは充実した社会保障を享受できるけれども、パートの人たちは社会保険にも入れない。そのようなことでは、本当に労働者全体の利益を守っていくということにはならないという問題が出てきています。

4.労働組合の発展型・・・現代との接続
  それではイギリスの労働組合運動が弱点をどう克服しようとしたか、これは非常に明確です。1890年代、ロンドンの波止場の労働者たちが参加できるような組合ができます。不熟練労働者が個人で参加できる、ある産業で、職種の如何にかかわらず、その産業で働いている人なら誰でも参加できる労働組合ができました。これが産業別組合であり、一般労働組合です。こういう組合が何をやったかというと、3つやりました。
  1つは、今までのように、「はい、さようなら」ストライキをやろうとしても、門の外に人が待っていると、「はい、さようなら」ストライキはできません。そこで、「シット・ダウン・ストライキ」(座り込みストライキ)を背景にして、団体交渉をして労働協約をつくる、ルールを明確に集団的な契約にしていくということを追求していきます。産業別労働組合や一般労働組合は、団体交渉によって労働協約を勝ち取っていきます。この場合、ルールの基本は、最低限の保障を、たとえば職種別につくるということです。人間として生きていくうえでの最低限の保障、つまりミニマム保障をさまざまにつくりあげていくという活動の延長線上に福祉国家が見えてきます。団体交渉とミニマム保障は産業民主主義の根幹としての意味をもちました。
  2つ目は、相互扶助はできません、じゃどうしますか。これは社会的制度にしていかなきゃならない。例えば相互扶助で失業者に対して共済組合から手当を出すという方法では、一般労働者も含めた失業者が大量に存在すると対応できない。そこで社会保険の導入を政府に要求する。相互扶助から社会保険というコースをたどっていくことになります。
  そして最後に、団体交渉と社会保険を中心とした社会保障制度で何を実現しようとしてきたかというと、いろんなレベルの最低保障(ミニマム保障)です。
  日本の労働組合の場合は春闘で一所懸命賃上げをやってきましたが、残念ながらいろいろなレベルでミニマム保障をつくることには成功していません。

 クラフトユニオンを原型にしながらその限界を克服していく努力というのが20世紀の各国、日本も今日まで続く労働組合の中心的な役割であると考えることができます。今日はお話できませんが、このような原型をめぐる活動の展開をみるのが労働運動史の課題だと思います。ただ日本だけではなくて、世界の労働組合運動は、どういう政党と一緒に活動するかというイデオロギーをめぐる分裂であるとか、あるいはストライキを中心にしてやるのか、労使協調でやるのかという考え方の違いですとか、いろんなことで分裂を繰り返してきた歴史を持っています。しかしそれでも、どの国の労働組合運動も、ルールの形成と制度の改革、この二つを人間としての労働者の立場から要求することを中心に活動してきたと考えることができます。そういう意味で、最初に紹介した単純な労働運動から市民運動へとか、労働組合から原発反対運動へというのではなくて、現に生きている労働者の、賃金を受け取って暮らす人たちの、自分たちの人間としての暮らしを良くする運動を歴史的にあらためて検討するという作業を、学生のみなさんにもぜひやっていただきたいということを申し上げて、終わりにしたいと思います。どうもありがとうございました。

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