二村一夫『労働は神聖なり、結合は勢力なり―高野房太郎とその時代―』

岩波書店
定価:2,800円+税
2008年9月

 本書は、日本の「近代的労働運動の生みの親」である高野房太郎(1869~1904)の伝記である。日本の労働運動は、1897年12月の鉄工組合結成によって始まった。同年7月に労働組合期成会が「労働組合に関する宣伝啓蒙団体」として設立され、鉄工組合は期成会に参加した知識人および労働者により結成された。期成会および鉄工組合の結成および運営で、最も重要な役割を果たしたのは、高野房太郎であった。本書は、高野房太郎の生涯を辿るとともに、日本の労働運動の発足時に活躍した房太郎と彼の家族や同志たちの同時代史も描いている。なお、房太郎の家族のなかで最も重要な人物は、弟の高野岩三郎(東京帝大教授、後に大原社会問題研究所初代所長)である。
本書は二段組で298頁と大部の学術書ではあるものの、読者はまさしく小説を読むように「主人公」の房太郎が歩んだ波乱万丈の生涯を辿ることができる。構成は、「はじめに」、1~13章、「終章」、「あとがき」、および文献・一覧と房太郎の略年譜となっている。第1~3章は、房太郎の幼少から少年時代(長崎、東京、横浜)を描いている。房太郎は、1869年1月6日に長崎で生まれた。高野家は、「代々和服の仕立てを家業」として山林や畑も所有する「かなり裕福」な家族であった。高野家は房太郎が10歳のときに東京に移り、「長崎屋」という旅館を開業した。彼は弟とともに小学校に通い、下等小学、高等小学の教育を受けた。房太郎は高等小学卒業後、横浜で伯父が経営する汽船問屋兼旅館の住み込み店員となり、13歳から渡米する18歳直前まで過ごした。房太郎は働きながら横浜商法学校の夜学に通い英語を学んだ。また、「講学会」という学習グループに参加し、そこでさまざまな書物に触れるとともに、外部からの講師による学術講演を受講した。このような知的刺激を受けるなかで、渡米を決意するに至った。
第4~7章は、房太郎のアメリカ滞在の時代を描く。房太郎は1886年12月にサンフランシスコに渡り、「スクールボーイ」(住み込みの家事手伝い)の仕事から始まり、その後さまざまな仕事に就いた。そのなかで彼はしだいに労働組合に関心をもっていったが、それは彼の関心は「出稼ぎ労働者としての労働体験」から来たものではなかった。房太郎の労働組合への関心は、西海岸の労働組合が中国人排斥運動の中心となり中国人労働者の安価な労働力を労働市場から排除する影響力をもったことを目の当たりにしたこと、一時働いていた製材所があった町の労働騎士団の活動家から教えられたアメリカの労働運動にかんする本を読んだことなどが契機となった。彼の観察によると、アメリカの労働者は労働組合を結成することで生活水準を向上させ、その結果達成された高い生活水準がアメリカ経済の反映に結びついた。房太郎は、日本も国家として繁栄するためには労働者の生活水準向上と労働組合が必要であると考えるようになった。
房太郎は、1891年に靴工の城常太郎と洋服屋の沢田半之助とともに「職工義友会」を立ち上げた。義友会は、後に「日本最初の近代的労働団体」である労働組合期成会の母体となった。房太郎は義友会結成時までに、労働組合にかんする知識を蓄積しており、90年に『読売新聞』にアメリカ労働運動の状況とその意義を論じた「北米合衆国の労役社会の有様を叙す」という論考を発表していた。また91年(義友会設立と同時期)には同新聞に「日本に於ける労働問題」発表し、日本の労働者の生活水準向上のために労働組合や共済組合の必要性を論じた。房太郎はアメリカの労働組合指導者とも接触した。房太郎は1894年3月にAFL会長のサミュエル・ゴンパース宛の手紙を出し、日本で労働組合を結成する際にどのような組織形態を取るべきか助言を求めた。ゴンパースは多忙にも拘わらずすぐに返事を出し、日本でも「なるべく早い時期に」職業別組合を結成することを勧めた。その後、二人の間で数十通の手紙が交わされることとなった。房太郎は、AFLのゴンパースだけでなく、労働騎士団、機関車火夫組合などの他の組合に対しても手紙を出し、情報収集をした。
第8章~第13章では、房太郎の日本帰国後の活動について書かれている。本書のこの部分は、日本の労働運動の発祥を詳しく述べており、房太郎だけでなく片山潜を初めとする当時の知識人や組合に関与した労働者たち、および労働組合がこの時期(19世紀末)に結成された歴史的背景などに触れており、他よりやや「学術的」な部分である。房太郎は、アメリカでの事業の失敗の借金を完済するために、アメリカ海軍の「お雇い水兵」となり、1年8ヵ月ほど砲艦マチャイス号の乗員を務め、同船が96年6月に横浜港に入港した際に「脱走」して帰国した。
彼は、いったん横浜の英字新聞社の翻訳記者として働いたが、東京に移り労働組合結成の準備活動を始めた。房太郎は協力者を得て、労働組合についての日本で最初の演説会の開催、『職工諸君に寄す』と題する小冊子の刊行などの活動を行ったうえで、97年7月に労働組合期成会(啓蒙団体)を結成し、さらに日本最初の労働組合である鉄工組合を同年12月に結成した。房太郎は、期成会と鉄工組合本部の常任役員となったものの、「無給専従」として働いた。彼は自分自身の生活費を、英会話の教科書やアメリカの労組機関紙への「日本労働通信」執筆による原稿料によって稼いでいた。
鉄工組合の組合員は順調に組織拡大をし、結成1年後には結成時の2.3倍の約2700人に達したものの、この時期、早くも組合費未納者の増加の問題が明らかになった。組合財政は、組合費未納だけでなく、組合の共済(救済金)給付の増加によっても悪化した。そこに鉄工組合最大の基盤であった砲兵工廠の管理者の組合員に対する圧迫、さらに労働運動抑圧をねらった治安警察法(1900年3月公布)が加わり、鉄工組合は急速に弱体化した。房太郎は鉄工組合の成長が軌道に乗り始めた時期(98年11月)に突然期成会と鉄工組合のポストを辞任して、横浜に「共働店」(生活協同組合)を開業した。その理由として、著者の二村氏は彼が「共済機能に重点をおいた労働組合運動に限界を感じ、活路を生活協同組合的機能の充実に求めた」ことを理由の一つとするが、より重要な理由が彼の生活問題にあったと指摘する。すなわち、房太郎は98年の春に結婚し「家計の安定を考慮」する必要が出てきたのである。半年後、房太郎は期成会と鉄工組合の本部役員の職に有給で戻ったものの、深刻化する鉄工組合の財政状況を立て直すことはできなかった。鉄工組合および期成会は、1900年の夏から秋にかけて「壊滅状態」になったとされる。房太郎はその後、同年8月に中国に渡りドイツ軍の軍属となった。青島で家族とともにこれまでよりも「落ち着いた」生活を始めたものの、1904年3月に肝臓膿瘍により37歳で死亡した。
このように高野房太郎は、現在の視点からみると仕事や事業を転々と渡り歩く「腰の据わらない」生涯を送った。しかし、房太郎の行動範囲は現在の視点からみてもかなり「グローバル」であり、また外国の情報を収集する能力や日本の情報の発信能力に長けていた。おそらく、彼が行った最大の事業は、日本で初めて近代的な労働組合を結成したことである。この「労働組合結成」という事業は2年半で内部的・外部的理由でいったん頓挫するが、1912年に友愛会により引き継がれ、現在に至っているのである。日本の労働組合の原点をつくった高野の生涯を多くの人にたどってもらいたいと思う。

(鈴木 玲)

※本書はウェッブ上の連載「高野房太郎とその時代」をもとに書き下ろされたものであり、ウェッブ本については、 高野房太郎の関連諸情報とあわせて、下記のサイトからご覧いただけます。
http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/nk/takanobio-correlative-ebook.html


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