熊沢誠『働きすぎに斃れて』

岩波書店
定価:3200円+税
2010年2月

 ふつうの労働者が「しがらみ」に絡めとられながら限界まで働くことによって支えられてきた日本社会。ただ「ふつう」の生活を維持するために、「働きすぎて斃れた」人びとの体験はまぎれもなく、その傍らで働くふつうの労働者の多くに共通する体験なのである。本書は、このような問題意識にもとづいて、日本の労働社会の実情と論理を明らかにすることに執念をもちつづけている熊沢誠の新著である。
本書の根底に流れるのは、「産業社会の構造的なひずみは個人の受難として現れる」という著者の基本スタンスである。本書は、過労死・過労自殺死という「個人の受難」の詳細な記述から導かれる「構造的なひずみ」の分析によって、現代日本の30年の労働史を描き出している。
近年では、派遣や請負といった非正規雇用労働の問題がクローズアップされる反面、過労死・過労自殺の問題は、取り上げられることが少なくなったように思われるが、非正規労働の急増、近年の絶え間ない合理化・人減らしによって、その一方の正規労働者の側の仕事の量は増え、企業の要求はますます厳しくなり、その要求に応じなければならない情況は今でも全く変わることはなく、この問題の深刻さはいっそう増大している。
本書はトラック労働者、工場・建設労働者、ホワイトカラー・OL、教師、管理職、現場リーダーなど、50人をこえる人々の過労死や過労自殺に至るまでの経緯と、その後の裁判などの記録を、情理をつくして記述している。細部にこだわった執拗な事例研究から浮かび上がるのは、被災者たちが「まじめすぎる」「不器用」といったための受難では決してないことであり、ブルーカラーにもホワイトカラーにも「ふつう」に働くことが命の問題となった日本の職場と家庭の現実の姿であるということである。
過労死、過労自殺。それはあきらかに、ある時点から急展開した。1990年代後半から激化する企業間競争、規制緩和の進行、短期利益追求の経営姿勢からくる成果主義の導入、その一方で、加速度的に顕在化した雇用形態の多様化、ワーキングプアの急増、非正規労働を使いすてる体制。それらは、いつも近代以降の日本の社会のなかに存在してきたものであるが、市場万能主義の政策基調が定着するにつれて、全面的かつ恥知らずのものとなっていった。
うそ寒いのは、「達成すべきノルマや予算や納期の割り当ては現存する」なかで過労死に至るほどの激務を、「自発的」な労働と言い捨てる企業経営者の存在であり、しかも、それを守れなければ過酷なパワハラ、失業が待ち受けている現実である。そのなかで転職もままならない労働者には、「企業内の成功者にならなければ生活の安定はない」と自分を説得しつつ、ギリギリまで働く「囚われびと」となる道しか残されていない。著者は、執拗にすぎるほど紹介された死の事例を読むことを通じて、「会社」という存在を大前提にして立場の弱い労働者を自発的な対応に追い込んでいる企業労務の責任に対する痛烈な疑問を投げかける。
日本はいつの間にかOECD諸国中、相対的貧困率4位と格差の大きい国になっており、年収200万以下が1000万人以上いるといった現状にある。中でもひとり親所帯の貧困率(60%)は群を抜いた高さである。360万人を超える失業者、1年以上も職を得ていない長期失業者も100万人弱にものぼる。
そういったなかで、ふつうの労働者も、「燃え尽き、斃れるまで働く」正規労働者の道か、さもなくば非正規労働者という名の「明日を描けない使い捨て」かという、「上」も「横」も向けない二者択一を迫られている。まじめに働いていれば何とか生活が維持できていた時代もすでに過去のものとなりつつあり、将来に希望を見出せないなかで親子間での殺人や凶悪犯罪は後を絶たず、自殺者は11年連続で年間3万人を超える異常事態となっている。
さまざまな職場で働いている労働者にとっては、本書で描き出されている状況が直接には自分の職場のあり方とは映らないかもしれない。こうした側面だけを描き出すのは、労働社会像としては一面的でありすぎるという感じをうけるかもしれない。しかし、ここで描きだされた姿が現代日本のなかに、少なからぬ量で存在していることはまぎれもない事実であり、過労死や過労自殺といったものを1件たりとも許してはならないという点ではそうした事実の存在そのものが問題であるだけでなく、実は、少なくとも潜在的にはほとんどすべての職場にこうした事実の予備軍が存在していることは、たとえば、いまやほとんどすべての職場で問題となっているンタルヘルスのあり方を考えるだけでもわかるはずである。
それでは、このような事態を打開するために何が必要であるか。著者は労務管理の改善や、構造的な労働時間短縮、組合運動の方向修正など、さまざまな方策をあげるが、何よりも「自分と家族の生活のため」と「会社の仕事のため」とを峻別できる労働者像を形成しなければならないと語る。ただ、このような労働者像の形成を意識の問題としてだけとらえてはならないことは本書の文脈から明らかである。労働者を命の極限まで働かせてしまう経営者や管理職の意識もおなじことであるが、意識は制度によって促進もされ、抑制もされる(この点は、本号所収のステイグリッツ『フリー・フォール』の書評参照)。極限まで働いてしまう、あるいは働かせてしまう仕組みや制度にメスをいれ、それを改革していく活動こそが著者のいう労働者像を実現することにつながる。
その意味では、職場の働くうえでのルール形成という労働組合のもっとも根源的な活動をもう一度点検することが必要であるというメッセージを本書は示していることになるが、実は、問題はもう一つある。本書で提示されている事例にかかわる人びとの多くは、労働組合員ではない、という事実である。このことは、労働組合が命にかかわるルールの形成をはかる場合、それは何より組合員のためのものではあるが、組合員のためだけであっては不十分であることをも物語っている。連合は、いま、組合員だけではなく、すべての労働者のための活動を重視するという方針をうちだしているが、その方針が本書で示されているような課題に具体的にどのように実践していくかがあらためて問われている。
過労死・過労自殺はそれが問題になってきた時間の長さと命の重さにおいて現代日本の労働史として語られなければならない。どれだけの悔しい思い、助けられなかった後悔、そして何よりも、命を奪われたという例えようのない悲劇。ここから反転して、あるべき労働の姿、制度、実践を労働者同士で語り合い、そのことで目の前の現実を変えていかなければならない。個々の事例に対しての著者の見解に賛否はありえようが、それを一段超えたなかで日本の労働の姿を再検討するために、本書は必読の文献としての位置を占めている。

(末永 太)


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