ジョセフ・E・スティグリッツ
『フリーフォール-グローバル経済はどこまで落ちるのか』

(楡井浩一、峯村利哉訳)
徳間書店 
定価:1800円+税 
2010年2月

 本書「フリーフォール~グローバル経済はどこまで落ちるのか~(原題:FREE FALL:America, Free Markets, and the Sinking of the World Economy)」は、なぜアメリカで世界金融危機の要因が作られたのか、誤った大局観が広がったのか、危機後のアメリカ政府の対策は妥当であったか、新しい社会の構築のためには何が必要であるかなどについて述べている。過去の分析にあたっても、何が2008年の危機をもたらしたかを理解できれば、将来の危機発生を防ぎ、仮に起きた場合でも被害を少なくすることができるという未来志向の観点から執筆されている。
著者のスティグリッツは、情報の非対称性でノーベル賞を受賞した経済学者であり、また、アメリカ大統領経済諮問委員会(CEA)委員長、世界銀行上級副総裁などアメリカ政府や国際機関の要職をこなしている。これまでも、自身の経済学における研究蓄積と実社会での経験を踏まえた問題提起を行ってきており、世界中でベストセラーになった「世界を不幸にグローバリズムの正体 (原題:Globalization and its Discontents)」では、IMFなどの国際機関が、途上国・新興国の現状を無視して、緊縮財政・市場の自由化・民営化というワシントン・コンセンサスを押し付けることによって、むしろ各国の状況を悪化させたと批判した。
本書では、世界金融危機は、決して偶然に起きたものではなく、人為的に起きたものであるとして、その根本的な要因の解明を試みている。人為的といっても、危機の要因は特定の政策立案者や金融界の大物といった個人ではなく、彼らがなぜそのような行動をとるような状況にあったかに重きを置いている。危機の主犯は、銀行家であるとしても、資本主義の原動力が利潤の追求である以上、彼らの倫理観や強欲さを責めても、抜本的改革には結びつかない。問題となるのは制度上の欠陥、具体的には、その強欲さをコントロールできなかった、企業統治(コーポレート・ガバナンス)の欠陥、独占禁止法の執行の徹底、市場の情報の不完全性などである。
金融セクターに制度上の問題があったとすれば、政策立案者及び規制当局が果たすべき務めを果たしていなかったことになる。スティグリッツは、金融危機前には規制緩和という失政が行われた要因として、誤った大局観と、特定の利益集団の政治的影響力を挙げている。市場が効率的で自己修正が可能だという大局観の中で、金融セクターが多額の政治献金を行い、行政においても金融界出身者らが政策立案・執行に関わる状況下では、公平なルールの策定と公平な審判は困難となり、金融セクターの短期的利益のみに資する規制緩和が進んだとしている。
政治・行政と金融セクターの関係は、金融危機の前後、さらにオバマ政権への政権交代によっても実はそれほど変わっていない。金融危機後の対処について、スティグリッツはむしろ事態を悪化させているのではないかと、ブッシュ政権だけでなくオバマ政権の政策も強く批判している。本来であるならば、アメリカの肥大化した金融セクターの縮小が必要であるにもかかわらず、「大きくて財務リストラできない」として多額の公的資金を、しかも政府が経営に対してコントロールを及ぼさない形で提供した。一方で、今回の事態に対する責任が大きいとはいえない住宅ローン支払困難者に対しては、過小な資金支援しか行っていない。このような政策決定は、金融セクターの利益が反映されやすい政治・行政の環境が影響しているとしている。
市場に任せることが何においても効率的だという誤った大局観の蔓延に関して、スティグリッツが責めを負うべきとしているのが、経済学およびエコノミストである。新古典派経済学を、意外なほど多くのエコノミストが信望した結果、完全市場という非現実的な仮定の下での話がイデオロギーとして普及し、金融セクター、政策立案者、規制当局の「見込み違い」を引き起こしたとしている。自分はケインズの流れを引くとするスティグリッツは、アメリカの経済のたてなおしのためには、経済学の改革が必要であると主張する。
さらに、アメリカ経済のたてなおしのためには、スティグリッツは、政府の役割の強化が必要だとしている。市場も不完全であり、政府も不完全であるし、政府も非効率である可能性があるが、市場が失敗すると政府が事態を収拾する以上、政府が大惨事を防ぐためにできることをしなくてはならない。市場が効率的には対処できない問題、例えば、医療保険制度改革、地球温暖化対策、インフラ整備、教育や研究開発などについては、政府の役割が重要であるとしている。
そして、スティグリッツは、今は、これからの社会をどういうものにしたいかを考えるときであり、作り出そうしている経済はその抱負を成し遂げるのに役立つものであるかを問うべき、としている。市場原理主義と合体した個人主義はコミュニティと信頼を衰退させたのであり、報酬やGDPでは計測できない価値、例えば自然環境、長期的な社会利益などが注目されるように、価値観のバランスを取り戻すことが、新しい社会を創出する機会をつかむために必要だとしている。
スティグリッツの語り口は、ときには饒舌に感じるときもあるが、迫力と説得力があり、読み手を刺激する。本書の対象はアメリカであるが、日本とは共通する課題は多い。新たな経済システムと社会システムの創出を論議するためには本書は必読の文献である。

(澤井景子)


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