江里口 拓『福祉国家の効率と制御―ウェッブ夫妻の経済思想』

昭和堂
定価:4,200円+税
2008年6月

評者:鈴木不二一(同志社大学技術・企業・国際競争力研究センター(ITEC)
アシスタントディレクター)

 本書は,経済思想史の最新の研究成果をふまえ,「社会科学者としてのウェッブ夫妻の実像」を明らかにし,彼らの経済思想と社会構想が現代に伝えるメッセージとは何かを問い直す労作である。精緻な実証研究に基づく専門的研究書であるにもかかわらず,きわめて読みやすく,論旨は明快である。
『労働組合運動史』,『産業民主制論』という古典的名著の著者として,あるいはフェビアン社会主義の理論的指導者として,ウェッブ夫妻の名は日本の労働組合関係者にも広く知られている。彼らのナショナル・ミニマム論は,社会保障・社会福祉の専門家や政策担当者の間で,今日でも政策的指針としての位置を失っていない。
けれども,そのような名声にもかかわらず,彼らの社会構想の全体像や,その基礎にある社会科学的認識と思想は,これまで必ずしも十分に理解されてきたとはいえない。著者によれば,その原因は,第一に,外在的な規準からのレッテル貼りが多すぎた。第二に,「冷徹な科学者であると同時に,宣伝活動を行う政治家でもあった」という「ウェッブの二面性」もまた,彼らの本来のメッセージを分かりにくくさせた。第三に,きわめて多岐にわたるテーマを扱い,しかも「体系的著作よりも政策提言を優先した」彼らの業績は,従来のような個別研究によるアプローチでは容易に全貌をあらわさない。
そこで著者は,社会科学者ウェッブ夫妻の思索を内在的に理解することを通して,その経済思想の核心を明らかにし,全体的視野からその社会構想の再構成をめざすことを課題として設定する。そのエッセンスをとりまとめた本書は,ウェッブ夫妻の思想的ドラマをリアルに描き出す読み物であると同時に,ウェッブ夫妻と著者との対話の書でもある。
簡単に内容を紹介しよう。まず,序章はウェッブ夫妻の生涯に関する,実に簡にして要を得た素描である。続く第Ⅰ部では,「ウェッブの社会経済思想」の核心は何であったかが分析される。それは,ふたつのキー概念から構成されている。
ひとつは「効率」である。ただし,彼らの「効率」概念は,資源の最適配分をもたらす「パレート効率性」のような狭い意味のものではない。「社会制度のスムーズな機能によって人間の『能力』(インプット)と『欲望』(アウトプット)との結合の最適経路が満たされた状態」を意味していた。そのような意味での「効率」は,市場システムのみで自動的に達成されるものではなく,市場を補完する社会的諸制度,あるいは代替的な社会制度が構想されなければならない。
では,そのような「効率」達成を担保する社会的諸制度の内実はいかなるものなのか。「漸進主義」的改革をめざすウェッブ夫妻のめざしたものは,「外在的な到達点としての『社会主義』」ではなく,「『民主主義』という『制度』進化のフィードバック装置」による社会の「制御」であった。この「制御」という概念が,ウェッブ夫妻の思想の核心にあるふたつめのキー概念をなす。そして,著者によれば,「社会制度という『環境を制御する』ために,ウェッブは彼らの時代に即した『応用社会学』の整備を急いだのであった」。
「第Ⅱ部 進歩に向けた制度デザイン」は,「社会経済システムの『効率』発揮のための制度デザイン」に関するウェッブの構想を,労働組合論と福祉国家論のふたつの領域に焦点をあてて分析している。ここでは,「今日では,狭義の福祉政策で定着しているナショナル・ミニマム概念が,労働・産業政策的な発想から出発していたことに着目すべき」であり,その意味で彼らのナショナル・ミニマム論を「積極的労働市場政策の先駆と見なすことも可能である」という指摘が重要であろう。連合運動に関わる実践家の視点からは,政策制度要求運動の歴史的意義を,ウェッブの応用社会学と社会構想との対話の中から再考察するという課題を考えてよいかもしれない。
さらに,「社会保障制度は,たんなる弱者への恩恵であってはならず,経済主体の『進歩』へ向けて巧妙に設計された制度機構でなければならない,と見るところにウェッブの構想の意義がある」という第Ⅱ部の結びの一文も,含蓄に富んでいる。そして,このような著者の認識が第Ⅲ部のテーマである「社会制御と社会科学的認識」にもつながっていくのである。「社会的制御」というテーマは,協同組合論,産業統制論,地方自治体論,行政国家のガバナンス論など,さまざまな分野でのウェッブの政策論の中で扱われている。著者は,それらを社会構想に関わるウェッブの一貫した主張として,みごとに再構成している。
第Ⅲ部では,「代議制民主主義のもとで社会制度をいかに監視していくか」という,きわめて現代的な課題をめぐるウェッブの構想について,多くの示唆に富む論点が提起されている。評者にとって,とりわけ興味深かったのは,「社会制御」における「専門職業人」の役割に関する議論であった。
著者は,「ウェッブが生きた19世紀末は『専門職員』,『企業家』などを中心とする『専門職社会』が到来した時代でもあった」と述べる。そして,そうした「新しい現実」の中で,ウェッブがめざしたのは,「知的エリート」としてのテクノクラートによる上からの支配ではなく,「有権者大衆による行政国家のガバナンス」という一貫した視座からの,民意による「社会制御」であったと指摘する。では,いかにして,その道はひらけるのか。
ウェッブの基本的発想は,そのためにこそ「社会科学」が必要なのだという認識にある。複雑な社会が「公開された知識というサーチライト」によって可視化されてきているという現代社会の発展傾向に,ウェッブは着目する。そして,そこに民意による制御の可能性を見出そうとする。ここに,ウェッブの社会構想の最大の特徴があると著者はみる。その構想を実現するには,「消費者・有権者大衆の側での『知識』の進歩」を促進する「長期的な大衆教育プロジェクト」が要請されるのであり,都市型高等教育機関としてのロンドン政治経済学院(LSE)の設立は,その構想実現の一環として計画され,実行されたものであった。
今日の労働組合やNPO団体の政策担当者,政策専門家は,まさに,ウェッブの社会構想における下からの「社会制御」を支える「専門的職業人」に他ならない。そのような視点から本書を読むと,いたるところに実践的な示唆がちりばめられているのを発見できるのではないかと思う。多くの方々にぜひ一読をすすめたい。

(著者の江里口拓氏は、愛知県立大学教育福祉学部准教授)


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