JIL「労働組合の現状と展望に関する研究」(51)


教育問題からみた若年者失業


苅谷剛彦
東京大学大学院教育学研究科教授
B5判/54頁 2003年4月 (社)教育文化協会発行 無料配布


 日本労働研究機構(JIL)は、1994年1月に「労働組合の現状と展望に関する研究会」(略称:ビジョン町)を設置し、1996年8月以降、順次、その研究成果を刊行してきております。
(社)教育文化協会はこのたび、日本労働研究機構のご厚意によりビジョン研の研究成果を当協会の会員各位に頒布させていただくことになりました。ご尽力を賜りました皆様方には、この場をお借りいたしまして厚く御礼申し上げます。
本書には、ビジョン研の2002年7月25日報告(2003年3月刊行)を収録しました。どうぞご活用ください。


報告概要
1. アメリカの教育改革がもたらしたもの

 私は1984年から1988年ぐらいまでアメリカの大学院で社会学を学んでいた。そのころ欧米諸国では若年者の失業問題、高卒レベルの若者の就職、労働市場における職業の確保が非常に大きな問題になっており、アメリカでもさまざまな政策が行われていた。また、労働の問題とあわせて教育の問題が非常に重要な注目をあびていた。
1960年代後半から1980年代にかけてアメリカではSATと呼ばれる大学入学者適正テストが実施されていた。内容は大学で学ぶ基本となる、かなり基礎的なレベルの数学と国語のテストだが何も勉強しなくても点数がとれるというわけではない。この基礎的なレベルの読み書き算の能力が長期にわたって低下していることと若年の失業が重なって問題になっていた。若い人たちを雇っても基礎的な能力がないために学校卒業者をすぐに雇うことができないという問題が、特に高卒のレベルの学力の人を中心に起こっていた。
アメリカの教育制度は多様で全国統一のカリキュラムはない。1960年代から子供中心の教育をかなり意図的に学校制度に取り入れていったが、うまくいかずに基本的な能力の点で問題が出てきてしまっていた。
アメリカと日本の決定的な違いは、アメリカでは高校までで得た知識の内容にある程度差があっても大学やMBA、ロースクールなど大学院レベルで徹底した教育をするが、日本にはそれに変わるものはない。高校までの教育がアメリカに近づいても、大学がアメリカのようになっていない日本がこのまま教育改革を進めるとどうなってしまうのか、1998年に再び1年間アメリカに滞在した時に非常に強い問題意識を感じた。
私が1998年にアメリカで行っていた研究は、日本で高校2年生を対象に1979年に調査した対象校と全く同じ高校で1997年に調査した結果の分析だった。能力についてそれが家庭環境によってどういう違いがあるかという研究はたくさんあったが、加えて努力に階層差があるのかという研究はあまりなかった。研究の中で気がついたことは1979年の高校生に比べて1997年の高校生は大きく勉強時間が減っていること、またどういう家庭の出身か、社会階層かによって勉強への取り組み方、勉強時間などの格差が拡大していることがわかった。

2. 新学習指導要領歓迎一色だった世論とそれに対する危機感
   1998年11月に今年の4月からはじまった学習指導要領が発表された。日本の新聞報道はこれでやっと受験教育がなくなり、いよいよ生きる力が作られるという大歓迎一色で、新しい指導要領で行われる教育がどういう問題点を持っているかについて非常に意識が希薄なことに気がついた。私はアメリカの教育改革の結果を知っていたので、これで大丈夫なのだろうかという思いを強くし機会あるごとにこのような話をすることにした。しかし、最初はとにかく袋だたきにあった。「今の教育改革は勉強時間も減っているから、もしかすると学力低下が起きるかもしれない」などというと「苅谷の言っているのはペーパーテストではかった学力。今からは発想を転換してやるのに、あいつは受験戦争に戻そうとしている」といった調子で世の中の流れがそういう方向一色になっていた。
「分数のできない大学生」という本がベストセラーになりマスコミが逆の方向になびいていくまで批判され続ける状況が続いた。そこで、理屈や自分がどう考えるかではなくデータで示して発言していこうと考え様々な調査の結果をメディアなどを通じて発表するようにした。

3. これまでの教育改革の流れ
   1970年代までは中央教育審議会が中心になって教育政策の立案を行っていた。社会や経済という大きな目標に対して教育が何をするのかという視点が1つの軸になっていて、社会的な視点、社会との接触がかなり重要視されていた。それに対して当時の教育学者や日教組は、資本主義に追随する、大資本に奉仕する教育政策だと批判した。
1980年代にはいると中曽根首相直属の審議会として臨時教育審議会が設置された。教育改革について文部省だけに任せるのではなく、首相の下で戦後の総決算の一つとしてやる趣旨を持っていた。ここで現在の大きな路線になっているネオ・リベラリズムや新自由主義などが出てきた。初期の審議会の中心的なテーマは学校の自由化だった。義務教育の画一性が最大の問題点であり、それをいかにして市場原理に即したものに変えていくか。塾のようなものも学校として認めていいという極端な意見もあり、これはこれまでやってきた教育制度が大きく揺らぐことになるため文部省は強く反対した。そんな状況の中で自由化という言葉がだんだん個性化という言葉に置きかえられ、最初は学校の個性化だったのが子供の個性化に議論が移っていく。この路線は1990年代の中央教育審議会にも引き継がれ2002年の今年からの改革にも繋がっている。
個性を大事にすることは戦後一貫して政策の文面では言われてきたが、実際にその中で行われている政策はどこかで社会や経済との接点を持っていた。それが1990年代からは個性を尊重すること自体が教育にとって重要だというところに軸足が移ってきた。
この流れの中で1989年に改訂、1992年に実施され今年の3月まで使われていた学習指導要領は、これまでの知識伝達を中心とした教育から子供達が自分で学び問題解決をしていくことを重視する「新しい学力観」が打ち出され、これは特に小学校の先生にとって革命的に考え方の転換を迫るものだったと言われている。
2000年代に入ると教育改革国民会議が設置され一種の国家主義と市場主義の復活がみられる。
この流れの中で1990年代に特に注目するのは、この10年間に行われた教育改革の考え方を今年の4月から始まった指導要領がより徹底するものだと言われているからだ。生きる力とは新しい学力観をより徹底して発展させたもので、これを実現するために1992年の改訂では小学校1、2年に生活科を入れただけであったが、今回の改訂では総合的な学習の時間を小中学校では一斉に2~3時間作って生きる力をつける教育を行う(高校は来年から実施)。この時間は教科書や細かい指導要領はなく、子供が体験を通して問題発見・解決の能力を養う教育を行うことになっている。
1990年代の10年間が現在行われつつある改革の大きな流れを先取りして行ったものであると考えると、この年代の検証をすることで今回の教育改革によってもたらされるものが類推できるのではないかと考え私は研究を進めてきた。

4. 1990年代に何が起きているのか
 
(1) 小中学校での総学習時間の減少
   学習時間は1972年に比べると現在は約1000時間減っている。1980年代後半から1996年くらいまでは、受験競争が激しくて日本の子供達は勉強しすぎだから教える量を減らしてゆとりをもたせれば、子供達が落ちこぼれることもなくなるだろうと考えられていた。しかし、私が調べた資料では今回の学習指導要領の改訂が行われる以前から完全に勉強しすぎより勉強離れへ大きな流れが完全にシフトしていた。
(2) 家庭での学習時間の減少
   東京都が3年おきに行っている中学2年生対象の調査では、家庭での学習時間が1992年までは若干増加しているが、それ以降は減っている。全く勉強しない子供の割合も1992年以降大きく増えている。審議会がこのような傾向をもっとしっかり踏まえていれば現在の政策も少し違うものになったのではないか。審議会の記録ではこのようなデータが検討された形跡がない。
(3) 勉強をしたくない子供の増加
   神奈川県藤沢市が中学校3年生全員を対象にした勉強への意欲、集中度、自信、理解度、勉強時間の調査では、勉強をしたくない子供の割合が1995年から2000年にかけて極端に増えている。
(4) 減らない校内暴力、不登校
   教育改革のひとつの狙いである校内暴力や不登校も1992年の指導要領の変更以降もまったく減っていない。
(5) 高校中退率の増加
   1992年の改訂から子供達の意欲・興味・関心を高めようと新しい学力観で取り組んできたが少なくともそのような成果は見えてこない。
(6) アメリカ、韓国より少ない学校以外での学習時間
   1996年時点の総務庁の調査では日本は韓国やアメリカよりも学習時間が少ない。文部省は教育改革を進める上でこのようなデータをほとんど分析していない。データを検討せずに政策が決まっていることが問題だ。

私自身や共同研究者と行った調査の分析
 
【1】 1979年と1997年に2つの県の同一の高校11校で高校2年生を対象にほぼ同一の質問紙を使って行った調査の分析
(1) 学習時間の減少とテレビ視聴時間の増加
   学校以外での勉強時間の推移を進路希望別(就職・専門各種・短大・四大私立・四大国立)に調べた結果どのグループも減少しているが、その中でも就職希望者は1979年は40分くらいだったのが1997年には10分ちょっとになっていて約7割の生徒は全く勉強していない。短大や四年制大学もこの間に随分入学しやすくなってかなり勉強しなくなっている。
テレビの視聴時間は増えていて、ほかのデータをみても勉強時間が少なくなった分必ずテレビの時間が増えている。そこは政策を見誤ったのではないかと思う。
(2) 社会階層による格差の拡大
   親の学歴や職業で階層グループを3分の1ずつ上中下3つにわけた比較で、学習に対する意識「落第しない程度の成績でよい」と思う生徒の割合は、1979年と比べると1997年はどの階層も増えているが中位下位階層でその割合が大きい。
「授業がきっかけとなってもっと詳しく知りたくなるかどうか」でも全体として「はい」と答えた生徒の割合は下がっている。しかし、上位はそれほど下がっていないが中位下位では下がり方が大きくなっている。
勉強の意欲は階層間の格差を広げながら全体的に低下している。

【2】 1989年と2001年に関西の小中学校生対象に行った算数、数学、国語のテストと勉強時間、意欲などに関する質問の分析
(1) 学力の低下
   小学校で行った算数のテストは、1989年に平均点が80点くらいでクラスのほとんどの子が良くできる問題で90点以上が4割で80点台も25%を超えていた。しかし2001年は90点以上は13%まで下がり50点以下がだんだん増えている。国語も最も点数が高い部分ががくっと減っている。
中学校の数学では2001年は40点以下が増え上の方が減っている。ここで問題なのは上下2極化が進んで悪い方が目立ってきていることだ。
(2) 階層による格差の拡大
   親の文化的な活動や環境などを質問して上中下3分の1ずつに分けたグループ(グループ分けの仕方についてはレジュメの「手続き」を参照)の平均点で比較した場合、小学校国語では5年生段階で中位上位と下位グループでは8ポイント近い差が出てくる。中学校国語でも下位と上位では10ポイント近い差が顕れる。
総合学習の調べ学習で自分が積極的に参加したいかという意識面でもはっきりとした差が出てくる。点数だけでなく学習への意欲でも家庭環境による差がある。また、ぺーパーテストで計られた学力であっても、ある程度それを知識にできる子供ほど調べ学習も積極的に一生懸命やるという結果が出てくる。逆に言うと得点の低い子供ほど調べ学習をやりたいと思わない。
このような小中学校での教育の結果は高校に反映する。高校に入るには入試があり、推薦などで入る場合にも特に中学時代の成績は影響するので、今のような格差が小中学校で出てきてしまえば当然、高校に進学できるかに跳ね返ってくる。

【3】 関東圏の大都市圏にある公立高校の生徒を父親の職業別に分けた調査の分析
   上位校はホワイトカラー(専門管理職、事務職)60%、ブルーカラー30%。下位校はホワイトカラー37%、ブルーカラー56%と比率がちょうど逆になっている。これは中学時代までにどのようなことがあったかという結果だ。
関西大都市圏の調査を重回帰分析し、中学生の数学の得点結果をどういう要因が規定するかをみると父親が大卒ダミーである影響がかなり強く、階層によって得点に差が現れる。やはり社会的階層による影響がある。

5. フリーター、無業者化への社会的階層の影響
   現在、若年雇用が不安定化しフリーターや無業者が増えているが、だれが無業者になっているのだろうか。さまざまな成績レベルの高校で行った調査がなく、親の階層別にフリーターや無業者がどれだけ出ているのかは調べられないが、進路多様校と呼ばれる学校だけの調査をしてみても、やはり中学高校での成績の影響があらわれている。
今、行われている教育改革がまだ小さいときから勉強の意欲、取り組み、成績による格差を拡大してしまうとすれば、当然どこの高校に入るかに影響しさらにどういった進路に至るかに関わってくる。
関東圏のある進路多様校の卒業直前の生徒達を対象にした調査で、卒業後の進路を保護者の職業別にみた。ホワイトカラー、ブルーカラー、自営業、流動的雇用者(小規模サービス業や販売、職人的な仕事をする人)に分けてみると、今まで無業者になる割合は自営の親の子供が多いと言われてきたが、実際は流動的雇用者層を親に持つ層が多いことがわかった。その理由は、おそらく親が流動的であると子供が職業を変えることへの抵抗感が少ないのではないか。いったんフリーターやアルバイトをやっても定職に就けるんではないかと思っている人が多い。

6. 現在の教育改革を続けることの危険
   子供の意欲をかき立て生き生きとした学校をよみがえらせるという教育改革の狙いがうまくいかずに学習離れを促進し、さらにそこにどういった家庭環境に生まれ育つかという社会階層による影響をうけ、全体の水準が低下している。こういった不平等の拡大は学校段階にとどまらず労働市場や若年無業者の問題になる。
これから日本は人口が減って高齢者が大きく増加し年金が破綻するかもしれないなど言われている中で、これを背負っていく子供が現在の学習指導要領を受け続けるとどうなるのか。小学生くらいの小さいときからライフスタイルや交流圏などの格差が拡大していく。戦後、現在まではある意味では非常に平等の原則を重視し、階層が客観的には存在したとしてもそれほど目立ったものではなかった社会に比べると、それが非常に目に付く社会になってしまうのではないか。雇用市場における賃金格差、流動性、正規雇用が減り非正規雇用が増えてそこに誰が入っていくのかを考え合わせるとそれが次に何をもたらすのか。
こういったことをひっくるめて私はインセンティブ・デバイドと呼んでいる。単に勉強しなくなるというだけではなく勉強する意欲、構えをなくしてしまう。勉強に対するインセンティブを感じなくなり、これにかわって学校以外の場で自分たちを肯定できる、未来志向よりも現状肯定的な生き方を選ぶ若者が増え、これが階層の問題とリンクしてきている。
若いうちにフリーターなどになり、オン・ザ・ジョブ・トレーニングなど技能形成の機会などを失って、さらにその前段階の学校教育で身につけることもできなくなったとき、どういったことになるのか。これは1980年代に私がアメリカでみてきたことと二重写しに見える。構造的に非常に似たものが見えてきたからこそ私は楽観的な世論に対して発言し始めた。


目 次

報告概要

1. アメリカの教育改革がもたらしたもの
2. 新学習指導要領歓迎一色だった世論とそれに対する危機感
3. これまでの教育改革の流れ
4. 1990年代に何が起きているのか
5. フリーター、無業者化への社会的階層の影響
6. 現在の教育改革を続けることの危険



報 告

1. アメリカの教育改革がもたらしたもの
2. 新学習指導要領歓迎一色だった世論とそれに対する危機感
3. これまでの教育改革の流れ
4. 1990年代に何が起きているのか
5. 社会階層による格差の拡大
6. 新学習指導要領を続けるとどうなるのか
7. インセンティブ・デバイドがもたらすもの



討議概要

1. 勉強しない子どもが増えた時期とバブル景気の崩壊時期の一致について
2. 地方と大都市圏の格差について
3. 社会階層に関する日本固有の問題は何なのか
4. アメリカの教育改革のその後


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