私の提言

佳作賞

ワーキングマザーの視点から見る今後の制度のあり方に関する提言

久保田 愛

はじめに

 私は県立高等学校の教諭である。女性が働き続ける職場としては、これ以上ないほど好条件の職業だと思う。産休、育休制度も整っている。時間短縮勤務という制度もある。世間から見れば、男性と当然同じ給与が支給されるし、夏休みも冬休みもあるし、週末は休みだし、ボーナスは出るし、文句などあるはずもない環境なのだろう。それでも、結婚、そして出産以来、なぜか私はいつも苦しい。仕事が好きで充実しているのに(それだからこそ、とも言えるのだが)、こんなにも満たされているはずなのに、働くことがとても苦しい。働くことを軸とする安心社会について考察するにあたって、いくら制度が整っても、それだけでは不十分なのではないかと考えずにいられない。「贅沢な話」かもしれない。しかし、本当に本当の意味での働くことを軸とする「安心社会」を目指すのであれば、制度だけでは解決できない、数字で測るだけでは成果の見えない問題に取り組む必要があるのだろうと私は考える。したがって、この提言の中で、まず制度について考察し、続いてそれら制度では解決し得ない問題について触れることとする。

概況

 この提言の目的は私個人の問題や感情に対処することではない。しかし、かなり高いレベルで条件を整えられている一人の労働者である私自身が、自らの体験や感覚をもって考察したいと考えているため、ここにまず私の個人的な状況を紹介させていただこうと思う。
 県立高等学校教諭(外国語)33歳。現在は進学校に勤務し、1年生の担任、英語ディベート部の顧問を務める。7年前に同じ年の夫と結婚。夫は会社員であり、私の職場と保育園の場所を考え、片道1時間強かけて通勤している。子どもらは5歳(長男)と2歳(長女)が保育園にそれぞれ11か月、10か月から、朝7時15分~夕方6時15分までお世話になっている。朝は夫が子どもたちを送り届け、帰りは私が迎えに行く。

制度について

 制度が整うことは大変重要なことである。労働者を取り巻く制度、特に働く女性にかかわる制度は年々改善され、数十年前では考えられなかったことばかりであろう。ここでは、私自身が利用した制度、利用したいと思う制度等について順に述べ、働くことを軸とした安心社会に必要だと思われる制度について考えたい。
 妊婦健診を受けるための特別休暇制度
 定められた妊婦健診を受ける時間、年次休暇とは別に特別休暇を取得することができた。私の場合、仕事への影響を最小限にするために、最寄りの病院を選び、また4時以降の検診を早めから予約し対応した。制度上は、よりよい施設や自由な出産を求めて遠方の病院等に通うことも可能である。
 この制度で私が最もありがたいと思ったことは、休暇を取得する際に「妊婦健診である」ということを管理職や周囲に伝えることができた点である。休暇そのものは助からないわけではないが、消化しきれない年次休暇があるために、正直なところ、それ自体のありがたみはさほどでもなかった。しかし、多忙のさなか仕事を抜ける形で受診することになるため、仕事を抜ける罪悪感が伴う。それを、理解していただくうえでも、制度を利用する価値があったと感じる。
 また、私は一人目と二人目の出産の間に一度、流産を経験している。実はこの妊娠の際、仕事の都合を優先することが正しいとばかり自分に言い聞かせ、大きな病院での検査を先延ばしにした。休みを取れるよう、制度で守っていただいているにもかかわらず、私自身は自分の子どもの命を守ることができなかった、と今でも自らを責める気持ちがある。制度があることは「妊婦健診が必要なことである」と公に認め、働く母親になろうとする労働者を支える意味でも重要である。その制度をいかに利用するかは、利用する者の責任でもある。

産前・産後休暇制度

 静岡県の教職員は出産予定日より産前8週間、また出産日より8週間の休暇を取得することができた。この間は給与が支給される。私の場合、仕事のタイミングを考え産前7週間ほどより休暇を取り始めたが、一人目も二人目も予定日よりも3週間以上早く生まれたため、実際には産前5週間弱、産後8週間の休暇を頂戴している。
 働いている女性がこの制度を利用して出産することができた場合、無職だったり退職してしまったりする場合と比較して、随分と有利であると思う。全く働いていない期間に給与をいただくことができるというのは、ただただありがたいことである。
 同時に、この制度の恩恵に直接あずからない人にとっては不平等感も当然のごとくあるであろう。今後の社会を支える子どもが増えることは、社会全体として重要であるという認識も高まっている。また、今日においては、社会全体の風潮としてその不平等感を声にすることは許されていないように思う。私自身は、その不平等と感じる声もまた、きちんと聞くことのできる社会でなければならないと思う。さもなければ、この制度により、新たに、守られないグループを生み出すことになる。また、不平等と感じる声を社会が受け止められなければ、その声を受け取るのは「個」となってしまう。そうした、「個」に対する声は「マタハラ」であり「嫌がらせ」であり「いじめ」であって、誰の利益にもならない。不平等と感じる人たちが、それもまた声に出すことができるよう、この制度を管理する側は常に窓を開けておくべきである。

育児休業制度

 産後、子どもが3歳の誕生日を迎える前日まで取得が可能である。給与は支給されないが、互助組合等から1歳の誕生日の前日まで給付金が支給される制度だ。私は、新年度に合わせて復帰をしたため、二人の子どもについてそれぞれ7か月ほど取得させていただいた。
 この制度についても、上記と同様、不平等感は存在するであろう。ただし、この期間は給与が支払われているわけではないので、本質に多少の違いはあるように思うが、両者の声を受け止められる社会、制度であることの重要性は変わらないであろう。
 私は結局1年以下の休暇ののちに復帰したが、その時期については大いに悩んだ。3歳児神話からくるのであろうか。3歳まで休むべきではないかと自分自身も自問自答し、また義理の両親や実の両親からも助言があった。また、周囲からも「3年も休めていいね」というような発言をたくさん聞いた。迷ったが、仕事から長期間離れることのほうが不安で、戻らせてもらうことにした。それが可能だった私の職場は恵まれているのだと自覚している。
 3年間の育児休業を義務化する動きがある。世間で議論されているように、「誰もが3年休みたいわけではない」と思うし、「キャリアロス」などのマイナス面もあるであろう。制度が整えられれば、当然それを利用しなければならないと考えるからであろうか。選択肢が増えることは悪いことではないはずなのだが、選択肢ができればそれだけ悩ましいことも増えてくる。また、表向きの選択肢と、それ以外が実際には存在するから、事はややこしい。制度がいかに整っても、それぞれが、それぞれの置かれた状況に合わせ、それぞれなりのベストな選択をする以外には、選択肢はないように思う。時には、表向きの選択肢以外を選ばざるを得ないかもしれない。時には、その状況を変えるべく、戦わなければならないかもしれない。そうしなければならないことを「安心社会」でない、と嘆く必要はないと私は信じている。10年前より、確実に良くなっているのだから、この戦いもさらに良い社会につながるものであるに違いないと私は思えるのである。そして、育児休業が何年取得できるようになっても、育児の悩みは消えるわけでも、減るわけでもない。

保育園制度

 私の子どもたちはそれぞれ歩けるようになる前から保育園で1日12時間近くを過ごしている。温かく立派な先生方に助けられ、子どもたちはもちろん、私たち夫婦が支えられていると感じる。
 それでも、保育園に通わせながら育てることについては、産前よりずっと悩み続けている。まず、保育園に入れない子どもたち、待機児童の問題は周知の事実である。ここ浜松市も例外ではなく、私自身、産前から保育園調べや探しを始めた。大変ありがたいことに、私たちの子どもは希望した保育園に入所できたが、周囲では入所できなかった話をたくさん聞いている。これは、問題である。働きたいと思っても働くことができないのであるから何とかしなくてはならない。保育所の数の増加、保育士の増員など、市町村や国の取り組みがさらに進み、成果を早急に出す必要があろう。
 しかし、私がこの提言でもっとも触れたい保育園に関する問題は、待機児童の問題ではない。保育所の数を増やしてもまだなお、働く母親の抱える悩みや問題は山ほどあるのである。中には、制度が対処できる問題もあるが、そうでない問題もまた多いと私は考える。真に安心して働くことのできる社会を考えるためには、それらにも社会の意識が向いてほしいと思うのである。

現状の制度が抱える問題

 保育園に入所することができ、夫婦共働きを何とか続けさせていただいている。しかし、実際には6時に職場を出て6時15分までにお迎えに行く毎日は、かなり多忙である。そのため、育児短時間労働制度という制度があるが、私の場合、その制度の利用はできなかった。この制度を利用するには代替職員を雇うことになるのだが、清掃と部活動、採点や会議等の時間に当たる放課後に2時間早く帰る教諭の代わりに、代替教諭を雇うことはほとんど意味がない。結局、その分の仕事を持ち帰ることになるし、周囲の職員に負担をかけることになる。公務員でこうであるから、制度が整っても、それを利用することができないという状況は多々あることであろう。それぞれの現場に合わせた、きめ細やかな制度が求められる。
 また、子どもが病気になった際には大ピンチである。保育園にはあずかってもらえないが、兄妹で順番にインフルエンザにでもなった時には、相当の期間を何とかしなくてはならない。病院の運営する病児保育施設もあるが、受け入れ人数も少なく、高額で、かなり遠方である。それに加えて、高熱でうなされている幼い子どもを、知らない人だらけの病院に一人で置いてくるというのは、大変つらいものがある。仕事に誇りを持つほどに、仕事を突然休むことには抵抗がある。万が一に常に備えているつもりだが、限界もある。
 これらはほんの一例であるが、保育園に入所でき、制度を利用しながらも改善点がいくつもある。「どうなれば、より助かるのか、よりよく働き生きていけるのか」について、制度を利用する者自身が声を発する責任を持つべきであろう。

制度だけではない問題

 これだけ素晴らしい制度に支えられ、そして、これからより良い制度を作ることにかかわる責任を担っても、まだなお残る問題がある。続いて、その点に触れることとする。

「保育園には入れればそれでいいのか」

 母親になり、実際に子どもを保育園に預けるようになって痛感するようになったことであるが、「保育園に入れさえすればそれでよいのか」という点である。制度を整えるという点に注目すると、どうしても「待機児童ゼロ」になるだけの保育所の数を用意することに意識が向いてしまう。しかし、保育所とは子どもたちが0歳から6歳までの6年間、一日10時間以上、夏休みも春休みもなく時を過ごす場所である。母親が働くためには、まず、入れなくてはならない。通勤等を考慮して可能な、そしてできることならば、できるだけ便利な「場所」と「開所時間」でなくてはならない。しかし、本来ならば、子どもたちにとってこれほどに重要な場所を、親の都合と条件を優先して選ばざるを得ないこと自体、問題ではないだろうか。
 我が家の長男は9か月で慣らし保育を始めてから、5歳半になる今日まで、ずっと「保育園が嫌い」である。言葉がしゃべれるようになる前は、ともかく泣いて怒ってしがみついてその思いを表現していたし、言葉がしゃべれるようになってからは、その気持ちを何度となく聞いている。「行きたくない。」といえば怒られるか困らせるということも学習済みで、大声で泣くことは減ってきたが、それでも金曜の夕方には「やった~」と叫ぶし、日曜の夜にはまさに「サザエさん症候群」に苦しんでいる。そんな息子を見て、私はずっとずっと悩んできた。仕事をやめるべきではないかとか、休むべきではないかとか、もっと早く迎えに行けないのはどうしてかとか。
 これは「贅沢な問題」である。保育園に入所できなければこのような選択肢について悩むことさえできない。やめるべきではないかと悩めるのは、差し迫った経済的問題がさほどないことの証でもある。しかし、だからこそ、これが「問題」であると気が付く必要があると私は思う。また、社会に気が付いてもらう必要があると考えるのだ。有能で賢い女性が、大好きな仕事をすーっと辞めていくのを見たことがある。「これは個人の選択の問題だから」と彼女は仕事を退職し、専業主婦となり、子どもを幼稚園に通わせはじめたのだ。「大好きな仕事も、子どもたちの大切さには適わない」と決めたと言う。そんな彼女を見て、私は自分もそうすべきではないのか、そうしたほうがいいと思っているのではないかと悩む。しかし、彼女もまたきっと、本当は仕事を離れるべきではなかったのでは、ほかに方法があったのではと悩んでいるに違いないのだ。
 贅沢な問題は尽きることがない。いくら制度が整っても、それを利用する側の都合、欲、態度、理解は別のところにあるからだ。

 

「働かないことを軸とした安心社会」との対立や脱却ではなく共生

 結婚を機に退職した友人に、子どもが熱を出したら夫婦どちらかが休んで対応していると話した際「休める仕事でいいね」と言われ、困惑したことがあった。彼女の夫は休めない仕事に就いているため、彼女が働くのは無理があるというのだ。私たち夫婦の仕事は「休める仕事」なのだろうか。答えは「NO」である。私は自分の仕事に誇りを持っているし、教室で待っている生徒らに対して責任を持っているつもりである。夫の仕事に関しても職種は全く異なるが、誇りと責任をもって彼が働いていることを確信している。だから、休めるから休む、という風に私たちは考えたことはないのだ。「働くことを軸とした」安心社会を築き上げようとするとき、一番のつっかえになるもののひとつに「働かないことを軸とした」安心社会の存在があるのだと、この友人の発言から痛感する。彼女にとっては、働かないことが(夫の仕事を支えるという働きを担うことが)認められている社会は安心できるものに外ならない。「働くことを軸とする」社会を目指す人たちと、「働かないことを軸とする」人たちの両者が、お互いを否定するのではなく、認める必要がある。それぞれの考え方や思い、抱える問題点について意見を交わす必要がある。どちらがいいとか、悪いではなく、両者が存在していることを認めない以上、互いの足を引っ張り合う関係になりかねないからだ。働くことを軸として物事を考える自分が、働かないことを前提として物事を考える人たちのことを忘れずにいる必要性をここに明記したい。

「いつ産むか」

 制度が整ってもなかなか利用する側は安心できない。本当に利用していいのか、と不安になり、利用すれば周囲に迷惑をかけるのでは、自分の評価が下がるのではと心配する。それは、他者と協力していく以上当然の配慮であると同時に、異常な心理でもあると社会全体で認識してほしい。中でも「いつ産むか」について必要以上に悩むことを私は懸念している。
 「できちゃった」では無責任だと思うが、それは「命」に対する姿勢がそうなのであって、会社や仕事に対してではないと私は考える。妊娠も出産も計画したようにできるものではないし、もし、そうできるようになりつつある今日であっても、本来そうあるべきものではないのだと思う。子どもを授かり、子どもが生まれてくるということは、もっと大きな流れの中にあるもののように思う。「働くこと」と同じ天秤にかけて、そんな大きなものを比べ始めることに違和感を感じるのだ。私の目指す安心社会では、「働くこと」がきちんと軸となっている。だから、そこに恋や愛や妊娠や出産が加わっても、その軸は動かされたり流されたりしないのだ。同じレベルにないものを、同じ次元で比較し考えることの危険性に気が付いてほしい。制度を作り整えるうえでも、その点は同様である。
 働くことが前提の安心社会において、子どもを産むこと、子どもが生まれてくることは、また更に一段大きな枠組みで守られた人として当然の営みであってほしい。

 

最後に

 制度がいくら整っても、解決することのできない問題が、個々の内部にあることをこれまでの内容から伝えてきた。それでは、どうすればよりよい「働くことを軸とした安心社会」を築くことができるのであろうか。
 当然、制度そのものが改善されていくべきである。利用する側が、責任をもって声を発し、よりよい制度を作り上げていく必要がある。また、与えられたものとしてではなく、利用者としての責任の意識をもって向き合う必要がある。使うも使わないも、使えるも使えないも、少なくともその責任の一端が利用者側にあるという意識は絶対に必要であろう。
 また、利用者の意識に加え、制度の改善に関して、私は「平等」「均等」「公平」について考えることを提言する。平等や均等であることよりも、公平であることのほうが重要であると私は思う。公平さを測ることは容易ではないが、少なくとも、その視点は持つべきであろう。すべての女性に3年間の育児休業取得を促すことは平等かもしれないが本当に公平だろうか。子育て中の私と、独身の彼女と、同じだけの仕事を分けてくれることはありがたいだろうか。その給与はどうあるべきだろうか。数字にすることの難しいものが多々あるが、公平さを目指した制度作りが安心社会の鍵であると私は思う。
 迷いながら、戸惑いながら、私は働き続けることを選んでいる。目の前の生徒たち、そして自分の子どもたちとともに働けるこの社会が、今よりも良くなるようにと願って働いている。そして、この社会がどうなっていくのかは、今日、今、私がどう働くかにもかかっているんだと、その責任を自覚しながら続けていくのである。


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