読書ノート

トクヴィルから学ぶこと

Note
中村圭介
2026.4.17

1.はじめに

 トクヴィル『アメリカのデモクラシー』(松本礼二訳、岩波書店、上二巻、下二巻)をようやく読み終えた。合計して1,452頁にもなる同書を購入したのが2024年7月29日だから、2年近くもかかったことになる。他に二つの大きな仕事をしていたこともあるけれど、しっかりと理解するのに時間がかかったことが大きい。
 トクヴィルに関心を寄せたのは、連合(日本労働組合総連合会)の地方組織である地方連合会、地域協議会の調査研究をしたことがきっかけである(中村=三浦 2005;中村 2010、2021)。これらの地方組織は組合組織であり、結社である。また、地方議会へ議員を送り、あるいは首長を推薦し、彼らを通じて政策制度要請をしている。つまり地方自治に関与している。地方組織の組合役員の中には労働審判員を務めている者もいよう。結社、地方自治、陪審(≒労働審判)は、トクヴィルが民主主義の下で失われる危険のある「社会的紐帯」を回復する装置として掲げたものである(猪木 2016、pp.15-17)。トクヴィルの枠組みの中に連合の地方組織を位置づけることによって、新しい見方を提示できるのではないか。そう考えたのである。だが、トクヴィルを猪木(2001、2016)から学んだだけというのは、研究者としてなんとも恥ずかしい。やはり、『アメリカのデモクラシー』を読み、トクヴィルそのものを自分なりに理解すべきだと考えた。
 第一巻はアメリカの政治諸制度を具体的かつ詳細に描き出し、それらがもつ特徴がアメリカの民主社会に及ぼすであろう諸影響を、その危険をも含めて詳しく述べる。第二巻はデモクラシーが、その下で生きる人々の思考、感性、芸術、習慣(生活様式を含め)などをどう変え、社会全体にどのような影響を及ぼすのかを論じる。まさに、この本は「近代社会の特質を『デモクラシー』という概念を通じて包括的に説明するグランド・セオリーとして読まれるべき」(宇野 2007、p.12)著作なのである。
 だが、現代日本をフィールドとする一介の労働調査屋にすぎない私にとって、「グランド・セオリー」を語るのは至難の技である。したがって、『アメリカのデモクラシー』をまるごと理解し、その感想文を書くことはできない。連合の地方組織をトクヴィルの枠組みの中に位置づけるという目的にそってのみ、この感想文を書こうと思う。だからこそ、タイトルは「トクヴィルから学ぶこと」なのである。
 感想文は第一巻の上、下、そして第二巻の上、下という順序で叙述しない。上述の目的に合わせて進める。なお、以下では各巻の上下を引用する際には、一上、一下、二上、二下と略すこととする。
 本文に進む前に、「自由」、「平等」、「民主主義」、「政治」について私なりの定義をしておきたい。これが唯一の定義などとは決して思っていない。自分なりにトクヴィルを読み解く上での前提としたいだけである。
「自由」=自分の意志で物事を判断し、行動できること。もちろん「正義の法 rules of justice」つまり「隣人の生命と身体を守る法」「隣人の財産と所有物を保護する法」「他人との約束に基づく権利を守る法」(スミス 2014、p.217)を遵守することが絶対条件となる。
「平等」=全員が同じ条件で扱われること。
「民主主義」=自分に関わることに関し、誰に束縛されることもない、等しい発言権(自由と平等)を持ち、それを行使できること。
「政治」=人々が社会の中で生き、暮らしていく際に必要となるルール(法律、規則等)を定め、広め、守らせる仕組みのこと。ルールの策定、普及、定着には当然、コストがかかるから、それを人々の間でどう分担するかも、ルールの中には含まれる。ルールを運用していくことを「行政」と考える。
 なお、自由、平等、民主主義は、不自由と不平等の貴族社会との対比で語られることを頭の片隅に置きながら、以下の感想文を読んで欲しい。

2.弊害と利点

 「合衆国に滞在中、注意を惹かれた新奇な事物の中でも、境遇の平等ほど私の目を驚かせたものはなかった」(一上、p.9)という文章から本書は始まる。私は「境遇の平等」という語句よりも「諸条件の平等」(宇野 2007、p.5)の方がわかりやすいと思うが、ここでは翻訳書に従ってこの語句を使う。境遇の平等が「政治の習俗や法律」や「政府」に影響を与え、そればかりではなく「市民社会を動かす力」を持ち、「世論を創り、感情を生み、慣習を導き、それと無関係に生まれたものにすべて修正を加える」(p.9)。他方、イギリスから移住してきたイギリス系アメリカ人の間には「ヨーロッパのたいていの国民におけるよりはるかに強く権利の観念、真の自由の原則が広まっていた」(一上、p.50)。
 自由と平等を二本柱とする民主主義原理によって進められる政治、これを民主政と呼べば、それが「ほとんどなんの抵抗もなくその本能に流されているアメリカで、それが法律をいかなる方向に自然に導き、政府の行動にどのような刻印を押し、一般に政治にどんな影響を及ぼしているかを示そうと試みた。私はそれが生み出す利点と弊害はなんであるかを知りたいと思った」(一上、p.28)。
 トクヴィルが指摘する民主政の弊害と利点を解き明かすことが私の感想文の出発点となる。弊害は民主主義それ自体を脅かす危険を生むかもしれない深刻なものと、民主政がうまく機能しないことがあるという問題とに分かれる。前者は社会の構成員全員の平等が確保されず、自由が侵害されることを指す。深刻な弊害のリスクから見よう。
 イギリス系アメリカ人の社会状態を論じる章で、トクヴィルは彼らは「財産と知性において平等であり、言い換えれば誰もが等しい力をもっている」(一上、p.86)と述べた上で、「このような社会状態の政治的帰結は、たやすく導くことができる」「平等が・・政治の世界にもやがては浸透すると考えぬわけにはいかない」(p.87)と続ける。政治の世界における平等とは、常識的に考えれば、成員に等しく政治に実質的に参画する権利を与え、誰もが社会のルールの策定などに関与できることだろう。トクヴィルが指摘するのは、それ以外にも、そうした権利を国民の「誰にも与えない」(p.87)という平等もあるということである。「強者を自分の水準に引き下げることを弱者に願わせ、自由における不平等よりは隷属における平等を人に選ばせる」という「平等への卑しい好み」も人の心にはある(p.87)。社会のルール策定に関与せず、少数の権力者にそれを委ね、彼らが作り上げたルールに唯々諾々と従う。自分の意志で判断することを止め、彼らの決定に隷従する。少数の権力者以外の全員が平等に不自由になるという状態が生み出されかねない。隷属への道を歩むことになる。これが深刻な弊害のリスクの一つである。
 もう一つの深刻な弊害のリスクは「多数の暴政」(一下、p.146)である。社会を律するルールを議論し、策定する立法府(議会)では「多数の力が絶対的」(一下、p.139)となる。「一人の人間より多くの人間が集まった方が知識も知恵もあり、選択の結果より選択した議員数が英知の証だという考え方である」(p.141)。また「最大多数の利益は少数者の利益より優先されねばならないという原則」(pp.141-142)もある。
 こうして多数者の支配が確立し、「多数の暴政」という深刻な弊害がもたらされる危険がある。ここでは大多数の人々が少数の権力者に隷従するのではなく、多数者が少数者を支配する。「政治において人民の多数は何事もなす権利を有するという原理は、不遜で憎むべきものだと思う」とトクヴィルは批判しつつも、「にもかかわらず、私は多数の意志にあらゆる権力の起源を認める」(pp.146-147)。
 もちろん「現在アメリカで、しばしば暴政が行なわれていると言うつもりはない。ただ、それに抗する保障はどこにも」(p.150)ない。多数の支配は次のように思想にも影響を及ぼしかねない。アメリカでは「多数の意見がはっきりしないうちは、いろいろな見解が語られる。ところが、一度多数の意見が決定的に宣言されるや、誰もが口を閉ざし、敵も味方もなく競って多数の後に従おうとするように見える」(pp.152-153)。多数派は少数派に対して、次のように語りかけ、魂をも襲う危険もある。「私と違う考えをもつのは自由だ。生命も財産もみな保障する。だが、この日からお前はわれわれの内で異邦人となる。政治的権利は保障されるが、お前には意味のないものとなろう。お前が同胞市民に投票を訴えても、決して支持は得られないし、せめて自分を尊重してくれと頼んでも、彼らはなお拒絶の意を示すであろう。お前は人間の一人ではあるが、人間の権利は失う」(p.155)。ここでは自由と平等が危機にさらされることになる。
 この二つの深刻なリスク以外に、民主政はうまく機能しないという問題も抱える。何よりも議会で議論され制定される法律に「しばしば欠陥があり、また不完全である。法律が既得権を侵害したり、危険な権利を保障することもある。たとえ良い法律であっても、頻繁に変わるのは大きな弊害であろう」(一下、p.112)。原因は簡単である。政治家の質が悪いからである。トクヴィルは言う。「合衆国に着くとすぐに、私は被治者の中にすぐれた人はいくらでもいるのに、為政者の側にはそれがどれほど少ないかに驚いたものである。今日、合衆国では、最上の人物が公職に呼び出されることは滅多にない」(一下、p.53)。
 それは、政治家を選ぶ民衆の知識水準が低く、優れた政治家を選ぶ能力に欠けており、また「ときにはその意志も好みもないことがある」(p.54)からである。前者について誤解のないように付け加えておこう。「たった一人の男の性格でさえ、精密に捉えるにはどんなに長い検討、どれほど多様な観念が必要であろうか」「民衆にはこのような仕事に捧げる時間も手段もない」(p.54)。「知識水準が低い」とは、真に優れた人物かどうかを検討する十分な時間も手段もなく、正しい選択をするのに必要なほどに知識水準を高めることはできていないということである。後者についていえば次のことである。民主主義では平等が前提となるが、実際には、例えば社会的、経済的地位の向上をめぐる競争では優劣が必ずつく。そこで「自分より上にある者はすべて自分の欲求の障害と思われ、上に立つのが当然と認めざるをえない人物でも、目の当たりに見れば嫌になる」(p.55)。だから、自分より優れた者を選ぼうとする「意志も好み」もなくなる。
 他方で、卓越した人物は「自ら政治的経歴から離れていく。というのも、すぐれた人物にとってこの世界に留まりながらまったく自分を変えず、堕落せずに進むことは難しいからである」(p.56)。トクヴィルはそれ以上に何も付け加えていないが、自分の信念を曲げずに政治家を続けていくことは難く、それが嫌なので政治から離れていくということであろうか。いずれにしろ、これらの結果、政治家の資質は低いままである。だから、民主政はうまく機能しないことがある。
 ただ、トクヴィルはこの問題は解決可能だと見なす。「アメリカ人の大きな特権は、失敗してもやり直しがきくということである」(一下、p.114)。民主政ではたとえ政治家が失敗したとしても、被治者がその失敗をカバーする。次のようである。「・・民主制の国家では為政者は他に比べて廉直と能力に欠けるとしても、被治者は逆により知識豊かで注意深いということに注目しよう」「民主政体においては、民衆は自分たちの問題を絶えず自分たちで処理し、権利の擁護に細心の注意を払うから、民衆の利益が指定するある一定の一般的路線から代表が逸脱することを防ぐ」(p.114)。民衆が直接、声を上げるか、あるいは次の選挙で別の政治家を選ぶことによって、逸脱を防ぐことができる。政治家としても「被治者の総体と対立する利害」(p.115)を持っていないから、民衆の声を聴き入れることができるし、「利害を同じくする」政治家が次の選挙で立候補することもできる。
 民主政は自由と平等という崇高な原理に支えられているという利点だけではなく、次のような利点をも持つ。等しく民衆といっても、貧しい人々と豊かな人々との間では利害が対立しよう。トクヴィルが上の引用にあるように「被治者の総体」という言葉を使ったのは、「民主主義の真の利点は、これまで言われたように万人の繁栄を促進するところにではなく、最大多数の福祉に役立つ点にあるにすぎない」(p.115)と主張するためである。最大多数の福祉の向上が目指されれば、民衆の多くは生活が豊かになり、さらなる向上を目指すようになろう。「合衆国では、社会全体の繁栄がわが身の幸福を左右することを民衆が理解してきた。アメリカの民衆は、この繁栄は自分たちの働きが生んだものだという見方に馴染んでいる」(p.122)。他方で、幸福の追求に懸命に努めるために、積極的に政治つまり「社会の統治に関与し、それについて論ずる」(p.133)。
 これらの結果、民主政は「社会全体に倦むことのない活動力、溢れるばかりの力とエネルギーを行き渡らせるのである。こうした活力は民主政治なしに決して存在せず、それこそが、少しでも環境が恵まれれば、驚くべき成果を産む可能性を持っている。この点にこそ民主主義の真の利点がある」(p.136)。ここで念頭に置かれているのは、言うまでもなく停滞する貴族社会との対比である。
 ここで、「環境に恵まれれば、驚くべき成果を産む可能性をもつ」という文章に注意すべきである。つまり、この利点を十分に活かすためには、二つの深刻なリスクを防ぐ努力が必要となる。それでは弊害のリスクはなぜ生じ、それを防ぐための装置はどんなものなのか。

3.隷属への道と個人主義

 隷属への道を開くのは境遇の平等がもたらす「個人主義」である。個人主義は「市民を同胞全体から孤立させ、家族と友人と共に片隅に閉じこもる気にさせる。その結果、自分だけの小さな社会をつくって、ともすれば大きな社会のことを忘れてしまう」(二上、p.175)。自分自身と家族、友人からなる小さな社会に閉じこもり、小さな社会で安楽に暮らしていくことに関心を寄せ、大きな社会=社会全体について考えなくなる。人々が社会の中で生き、暮らしていくために必要なルールの策定、普及、定着に関心を抱かなくなる。
 こうした「個人主義は民主的起源のものであり、境遇の平等が進むにつれて大きくなる恐れがある」(p.176)。なぜか。アメリカ人の社会状態を論じた箇所で、彼らは「財産と知性において平等であり、言い換えれば誰もが等しい力をもっている」(一上、p.86)とトクヴィルが指摘したことを思い出して欲しい。それを前提とすると次のようになる。「境遇が平等になるにつれて、同胞の運命に大きな影響を及ぼすだけの富と力はないが、それでも自活するには十分な知識と財産を獲得もしくは保持している膨大な数の人々が見出される。この人々は誰に義務を負うでもなく、誰かを当てにするようなこともない。自分はいつも一人だと考えるのに慣れ、自分の運命はまるごと自分の手の中にあるとつい思い込む」(二上、pp.177-178)。民主社会では相応の知識と財産を市民が平等に持ち、自分のことは自分で決められ、他人に頼る必要に迫られることもない。だから小さな社会に閉じこもっても、安楽に、豊かに暮らしていける。みんながそう思う。その結果、境遇の平等が生み出す個人主義が広がっていく。
 トクヴィルは、境遇の平等が個人主義を広めていき、それが隷属への道を開いていくプロセスをアメリカ人が持つ「物質的幸福を求める情熱」に焦点を当てながら次のように「仮説的」に論じていく。「・・諸身分が混じり合い、特権が破壊されるとき、また家産が分割され、知識と自由が広がるそのときには、よい暮らしを手にしたいという熱望が貧乏人の想いに生じ、これを失うことへの恐れが金持ちの心に現れる」(二上、p.224)。平等な社会であるからこそ、成功する機会も平等にある。だからこそ、みんなが「よい暮らしを手にしたい」と熱く望み、一度手に入れた富は失うまいと願う。とはいえ、その望みは行き過ぎることはない。「安楽への愛着は・・執拗かつ排他的で、普遍的な情熱だが、しかし抑制されたものである」「自分の耕地をなにがしか増やし、果樹園をつくり、家を大きくし、生活を毎日少しずつ楽で便利にし、障害を除去してささやかな欲求を努力もまたほとんど代償もなしに満たすこと、これらが関心の対象である」(p.227)。目標は「ちっぽけ」(p.227)なのである。だが、「心の執着は強い。毎日これらの目標が目の前に浮かび、ついには他のすべてを人の心から隠してしまう」(p.227)。そして、大きな社会=社会全体について考えることもなくなってしまう。
 別の箇所でトクヴィルは次のようにも述べている。「ただひたすらに財をなすことにこだわ」ると、「彼らには政治的義務の実践が仕事の時間を奪う厄介ごとに思われる。代表の選出であれ、役所の手助けであれ、また共同で当たる自治の仕事であれ、彼らには時間がない。彼らの貴重な時間を無駄な仕事に使おうとはすまい。これらは生活の重大な利害に縛られる真面目な人間には相応しくない暇人の遊びである」(二上、pp.241-242)。自分の暮らしを少しずつ良くしようという「ちっぽけな目標」であっても、それに執着すると、それ以外のことは、たとえ社会のルールの策定、普及、定着という民主社会の維持に不可欠なことであったとしても「無駄な仕事」であり、「暇人の遊び」である。大多数の人々がそう考えていたら、そこに「有能な野心家が権力を奪うならば、彼はあらゆる簒奪の道が開かれていることに気づくだろう」(p.242)。「彼らは勝手にすべてを動かし、法律を改め、思うままに習俗を圧迫する」(p.243)。こうして、大多数の国民は自由を奪われ、少数の権力者に隷従する。個人主義の蔓延が隷属をもたらす。
 二つの点を加えたい。一つは、個人主義が広まり、隷属への道を開く具体的プロセスを描く際に、私が「仮説的に」と付け加えた理由である。もう一つは「平等への卑しい好み」と個人主義との関係である。
 前者から論じよう。トクヴィルは、個人主義の蔓延が隷属への道を開く危険を論じるが、「今までのところ、幸いにもアメリカ人はここに私が示した暗礁をすべて回避してきた」(二上、p.243)、「アメリカ人は世界に自分一人しかいないかのように私的利益に専心し、次の瞬間、すっかりこれを忘れたかのように、公共の問題に没頭する」(p.244)。実際には、隷属への道を歩んでいない。だから「仮説的」としたのである。
 後者について。先に「強者を自分の水準に引き下げることを弱者に願わせ、自由における不平等よりは隷属における平等を選ばせる」という「平等への卑しい好み」も人の心にはある(一上、p.87)と論じた。個人主義の蔓延が隷属の道を開くというこれまでの記述との関係はどうなっているのだろうかという疑問が生じても不思議はない。「平等への卑しい好み」は、強者の足を引っ張って自分と同じ地位に下げるというイメージであるのに対し、個人主義は「自分の財産を増やすのに精いっぱいで、政治に関心を持つ余裕もない」というイメージである。二つのイメージにはギャップがあるように感じる。
 本書を読む限りにおいて、私が抱いたギャップについてトクヴィルが特段説明しているようには思えない。私なりの解釈は「自由」という次元で強者、弱者を考えるということである。自分の財産の増殖に専念する人は、社会のルールの策定、普及、定着に関して「自分の意志で物事を判断し、行動すること」に関心を抱かなくなる。逆に社会のルールに自由に発言していこうとする人は、財産の増殖に費やす時間が少なくなる。自由を軽視する前者が自由を尊重する後者よりも、物質的には豊かな暮らしを享受する。暮らしの物質的豊かさを見せることによって、後者の尊厳を貶め、自らと同様に「自由を軽視する」ように向かわせる。こう考えるのはどうだろうか。もちろん、私なりの解釈にすぎない。

4.暴政と権威の受容

 多数者による少数者の支配=暴政をもたらすのは、公衆の権威の受容である。トクヴィルの説明はややわかりにくい。もちろん「私にとっては」という限定つきである。
 ここでも出発点は境遇の平等である。「・・市民がほとんど同じになって誰もが親しく付き合うような国、争い難い偉大さや優越性を誰にも認めず、真理のもっとも明白で身近な源泉として絶えず自分自身の理性に立ち返る国にあっては・・一人の人間の知性が他の人間の知性に働きかける作用」は「必然的に強く限定される。このとき、ある特定の人間への信頼が失われるだけでなく、およそ他人の言葉を信用しようという気がなくなる」「誰もがだから固く自分の殻に閉じこもり、そこから世の中を判断しようとする」(二上、p.19)。
 民主社会では個人は何事も自分で判断しようとする。さらに「彼らは実生活で出会う小さな困難をことごとく人の援けを借りずに解決しているので、そこから容易に、世界のすべては説明可能であり、知性の限界を超えるものはないと結論することになる」(p.19)。「知性の限界を超えるものはない」という点は、すぐ後で述べる「権威の受容」において重要となる。
 何事も自分で判断するとはいえ、限界がある。トクヴィルは「社会が存続するためには成員が共通の観念を持つ必要がある」ということから、「個人の限界」に迫っていく。「・・たやすく分かることだが、同じ信仰をもつことなしに社会は繁栄し得ず、というより、そうでなければ社会は存続しない。なぜなら、共通の観念なくして共通の行動はなく、共通の行動なくしては、人間は存在しても社会はないからである。社会が存在するため、それ以上に社会が繁栄するためには、すべての市民の精神が常にいくつかの主要な観念によってまとめられ、一つになっていなければならない。そして、市民の誰もが時折は共通の源泉から意見を引き出し、いくつかの出来合いの信念を受容することに同意しなければ、そうはなり得ない」(二上、p.26)。ここで信仰とは宗教ということではなく、「哲学、道徳、政治」(p.30)などについて持たれる観念のことを指すのだと考えられる。社会が存続、繁栄するためには、成員が生活を営む上で必要となる観念を共有することが前提だということだと思われる。
 この「共通観念」をすべて自分で判断して決めることは実際には不可能である。「もし、毎日使っている真理のことごとくを自分で自分に証明しなければならぬ羽目に追い込まれたとすれば、人はとてもそれをやり遂げないであろう。予備的な証明に力尽きて、先へは進めまい。人の一生は短いからそんなことをする時間もなく、個人の知力には限りがあって、そうする力もない」(p.27)。だから、自分では検討したことはないが、「優れた人々がすでに発見し、大衆が是認している事実や見解の多くは、これを確実とみなすことになる」(p.27)。大衆が是認する考え方といっても様々であろう。その中から、個人が自分で判断して選び、受け容れ、その上で自分固有の思想を築き上げる。他人の見解を受容するとは、言い換えれば、その人の「権威を認める」ことでもある。
 その際、権威を自分たちの外に求めることはしない。「この平等の時代に生きる人々にとって、自らが服すべき精神的権威を人間性の外やその上におくことは難しくなっている。通常、彼らは自分自身の中、あるいは自分の同類の中に真理の源泉を求める」(p.28)。上述したように、「世界のすべては説明可能であり、知性の限界を超えるものはない」(p.19)。だから「人間性の外や上」に権威を認めることはない。この「外や上」が何を意味するのかはよくわからない。普通に考えれば「神」ということになりそうだが、明示的にそう書かれているわけではない。これに対し「自分自身の中、自分の同類」は次の意味である。「市民が互いに平等で似たものになるにつれ、ある特定の人間、ある特定の階級を盲目的に信じる傾向は減少する」(p.29)。貴族社会におけるように、国王、貴族、貴族階級など特定の人間や階級の考えを何の疑問もなく受容することは少なくなる。これに代わって「市民全体を信用する気分が増大し、ますます世論が世の中を動かすようになる」(p.29)。
 その結果、平等の時代には次のようなパラドックスが生まれる。「平等の時代には人々はみな同じだから、お互いに誰かを信用することが決してない」(p.29)。この節の第二パラグラフに書かれているように、平等の時代では、互いに「争い難い偉大さや優越性を誰にも認めず」、「一人の人間の知性が他の人間の知性に働きかける作用」は「必然的に強く限定される」(p.19)。だが、「みな同じだからこそ、人々は公衆の判断にはほとんど無限の信用をおくことになる」(pp.29-30)。どういうことか。公衆=多数派が同じような観念を持つならば、その観念を盲目的に信用する。「誰もが似たような知識水準である以上、真理が最大多数の側にないとは思えないからである」(p.30)。民主社会では、個人は平等で、互いに独立している。他者の権威を認めるということはない。だが、多くの市民が同じ観念を持ち、多数派を形成すると、それに「無限の信用」を置くことになる。言い換えれば多数派の権威を受容する。
 第2節で述べたように、アメリカの立法府では「多数の力が絶対的」(一下、p.139)である。そのことが「公衆の意見が各人の精神にそれでなくとも及ぼす影響力を一層大きくする。だがそれが影響力の根源ではない」(二上、p.31)。つまり、暴政は多数決原理という政治制度に起因するのではない。その根源は「平等自体に求めるべき」(p.31)である。境遇の平等の時代にあっては、以上で論じたように多数派の権威を受容することが普通になる。だからこそ多数の暴政のリスクが生じる。

5.地方自治

 隷属と暴政、この二つの弊害が起きるリスクを防ぐための装置は何か。既に述べたように、地方自治、陪審制度、結社がその装置である。これらの装置がどうやってリスクを防ぐのか。地方自治から見ていこう。
 第一巻(上)の第二章、第五章ではニュー・イングランド州にある基礎自治体(タウンシップ)での地方自治の様子が詳細に紹介されている。タウンには「タウン議会はない」(一上、p.100)。決議機関としては、有権者全員からなる「地域集会(タウンミーティング)」(p.101)がある。毎年開催される地域集会では、行政権の大半を握る少数の理事(セレクトマン)、その他のあらゆる種類の公職が住民の中から選ばれ、任命される。さらに「選挙民は役職者を任命した後も、・・すべてにわたって役職者に直接指示を与える」(p.100)。タウンシップに関わるルールの策定もまた地域集会で行われる。次のようである。「たとえば学校を一つ建てるという場合を考えてみよう。理事は一定の期日に、予め公示した場所に全有権者を招集する。そこで何が必要であるかを明らかにする。ついで、この必要を満たすべき措置、そのための経費、適切な場所を知らせる。有権者の集会はこれらすべての点について意見を求められ、趣旨を承認し、場所を定め、課税を票決する。しかる後にその意志の執行を理事の手にもう一度返すのである」(p.101)。「地域集会・・の招集権をもつのは理事だけだが」、有権者は「彼らにその招集するよう求めることはできる」(p.101)。
 公職は極めて多い。列挙してみよう(以下、pp.101-102)。課税額査定者、収税人、保安官(治安の維持、公共の場所の整備、法の実質的な執行)、タウン書記(議事の記録、戸籍作成)、収入役、貧民監督官、学校委員(公教育の監督)、道路保安官。さらに「礼拝費用を決済する教育委員や種々の監督官も地方公務員に数えられる。市民の防火活動の指導、収穫物の警護、境界争いの暫定的な処理、森林の監視と測量、度量衡検査、これらの仕事にそれぞれ監督官がいる」。「タウンには主な公職が全部で19ある。住民は誰しも任命されたならばこれらのさまざまな職務を引き受けねばならず、断れば罰金が科せられる。だが公職の多くには俸給が支払われるので、貧しい市民も損失をこうむることなく公務に時間を割くことができる」(p.102)。
 基礎自治体であるタウンには住民による民主主義に基づく自治が根付いている。タウンで生き、暮らしていく際に必要となるルールを自分たちで決定し、そのルールを自分たちで運用している。たとえ「人民による公共の問題の処理はしばしばきわめて拙劣」(一下、p.134)であったとしても、そこでは「少数の権力者への隷属」は見られない。
 個人主義の蔓延はどうか。日常的に地方自治に携わることによって、住民は「個人主義」に陥るリスクから逃れることができる。次のようである。「公共の仕事に関与せざるを得ないとき、市民はいやおうなく個人の利害の世界から引き離され、時には、我を忘れさせられる」「共通の仕事に一緒に取り組んだその瞬間から、誰もがそれまで思っていたほど仲間から独立しているわけでなく、仲間の助けを得るためには、自分もしばしばこれに協力しなければならぬと気づく」(二上、p.182)。協力は公職についている市民間でも必要となるだろうし、タウンで定められたルールを運用する対象となる普通の市民との間でも必要となろう。タウンでは公職は選挙で選ばれる。いつかは自分が選ばれると思えば、「自尊心や欲求不満から狭い私生活に閉じこもっている人々も、周囲の住民の支えなしにはいられぬことを毎日感じる」(p.182)。
 こうして「地方の自由があると、多数の市民が隣人知己の厚情を高く評価するようになる。地方の自由はだから人と人とを隔てる本能に逆らって、人々を絶えず仲間のもとに立ち戻らせ、助け合うことを余儀なくさせる」(pp.184-185)。ここで地方の自由とは地方自治と同義である。結局、地方自治が個人主義蔓延のリスクを大幅に減らすことになる。
 トクヴィルは特に言及しているわけではないが、タウンにおけるルールの策定において「多数の暴政」が生じる可能性はある。ただ、生活に密接に関係するルールについて、住民の間で意見の大きな違いがあるとは考えにくい。また、そうしたルールは多数あるから、そのほとんどで、常に少数派であるということも考えにくい。こう考えると深刻な「多数の暴政」が起こるリスクは少ないのではないか。
 タウンを超えるルールに関してはどうか?「一般にタウンが州に服するのは、私が社会的と呼ぶ利害、すなわち他のタウンと共有する利害が問題となるときだけである」(一上、p105)。「社会的諸義務については、タウンはこれを果たさなければならない」(p.105)。社会的義務として次の例が挙げられている。「州が金銭を必要とするとき、タウンはときに協力し、ときにこれを拒否するという自由をもたない。州が道路を開こうというとき、タウンが自分の土地をこれに閉ざすことはできない。州が治安法規をつくれば、タウンはこれを執行しなければならない。州が統一的計画のもとに全土に教育組織を整えようとすれば、タウンは法律の要請する学校を建てる義務を負う」(pp.105-106)。道路や学校の建設にあたっては費用がかかるが、「税額はたしかに立法府の投票で決まるが、これを割り当て、徴収するのはタウンである」(p.106)。ここで立法府とは州議会に他ならない。
 州レベルでも「少数の権力者への隷属」は起こりそうにないと私には思える。州議会での決定は生活という点でも、費用負担という点でも、タウンの住民に直接関係する。地方自治の実践で個人主義から解放されている住民が、自らに関係することに、とりわけ不利なことに黙って従うとは思えない。他方、「多数の暴政」は、たとえば多数派タウンと少数派タウンという構図で、生じる恐れがあるかもしれないと私は考える。

6.陪審制

 二つめの装置は陪審制である。「陪審というのは抽選で選ばれ、臨時に裁判権を与えられた一定数の市民」(一下、p.184)を言い、この陪審員によって行われる裁判が陪審制である。アメリカの陪審制の特徴は陪審員が市民の中から選ばれることである。「イギリスでは、陪審員は国民の貴族的部分の中から採用される。法律をつくり、施行し、そして違反者を裁くのは貴族階級である」(p.184)。これに対し「アメリカの市民は誰もが有権者であり、被選挙権をもち、そして陪審員である」(p.184)。
 トクヴィルは司法制度としての陪審制と政治制度としての陪審制を区別しなければならないと述べ、政治制度としての陪審制が民主社会の維持にいかに寄与するかを論じていく。司法制度としては「陪審制、特に民事における陪審制が裁判の正しい運用にどこまで役立っているかが問題であるならば、正直に言って、私はその効用に疑問の余地がありうると思う」(pp.182-183)との留保を付けながらも。
 裁判とは、「人びとが社会の中で生き、暮らしていくために自らが定めたルール」に違反する行為があったかどうかの判定、あるいは諸ルールの運用をめぐる解釈を行うプロセスであるから、その前提としてルールに関する知識を保有する必要がある。知識の保有、判定、解釈のプロセスが市民にどのような影響を及ぼしていき、民主社会の維持にいかに寄与するか。これを解明することが「政治制度としての陪審制」を論じることに他ならない。
 ところで裁判にかけられる事件には、罪を犯した者を裁く刑事事件と、個人間のルールに関わる争いを裁く民事事件の二種類があるが、アメリカではいずれも陪審制が適用される。刑事事件において「犯罪者を裁く人間こそ真に社会の主人公である」(pp.184-185)。なぜか。刑事事件を裁く者は社会を代表して犯罪を公正に判定する必要があり、またそうすることが期待されているからである。アメリカで刑事事件も陪審制で裁かれるということは「社会の指導権を人民・・の手中に委ね」(p.185)ていることになる。だが、「陪審制が刑事事件に限られる時、国民はその作用をただずっと遠くから、個別の事件においてのみ見るだけである。日常生活の中では陪審を意識しないのが普通」(p.186)である。「ところが、陪審制が民事事件にまで拡げられると、その実態が刻々目に触れる」(p.187)。刑事事件で自分が訴追されることはあまり想像がつかないが、民事事件に関しては「いつか自分も裁かれるかもしれぬと考える」(p.188)ことはいかにもありそうだからである。
 では陪審制が市民にどのような影響を及ぼすのか。「陪審制、とりわけ民事陪審制は、判事の精神的習性の一部をすべての市民の精神に植え付けるのに役立つ」(p.187)。「判事の精神的習性」とは何か。「法律について特別の研究をした人間は、勉強しているうちに、秩序を好む習慣、形式を好む一定の気持ち、論理に適ったものの考え方に対する本能的な愛を身につけるものである」(一下、p.170)。つまり、陪審制は市民に秩序、形式、論理を尊重する姿勢を身に付けさせる効果を持つ。
 陪審制は「判決の尊重と法の観念とをあらゆる階級に行き渡らせる」(一下、p.187)。私なりの言葉でいえば、社会には誰もが守るべきルールがあること、ルールにそって下された判定や解釈は尊重されねばならないことを教える。もちろん、陪審制はルールそれ自体を学ぶ機会を与えるものでもある。
 それは「衡平原理の実践を人々に教える。各人は隣人を裁きながら、いつか自分も裁かれるかもしれぬと考える」(p.188)。ここで衡平原理とは、「一般的な法規範を解釈し、個別事項に適用するに際して、具体的な妥当性を実現するための原理」を指す(有斐閣法律用語辞典第5版)。事件に固有の事情を考慮しつつ、公正、正当な判断を下す必要を教えるということか。衡平原理を考慮せずに判決を下すと、いつか自分にも不当な判決が下されることになりかねない。
 陪審制はまた「各人に自分自身の行動の責任を回避せぬことを教える」(p.188)。この文章は二通りに解釈できる。一つは、刑事であれ民事であれ、事件を起こした個人は裁判で裁かれ、判決を真摯に受け止めなければならないということを、陪審員たる個人が認識するという意味である。もう一つは、陪審員として裁判に臨む個人は、自らが下した判断に責任を持たなければならないことを自覚するという意味である。いずれにしても自分の行動(判断も行動である)に責任を持たねばならぬことを教える。
 市民に秩序、形式、論理を尊重する姿勢を身に付けさせる。社会にルールがあること、それにそって下された判定や解釈は尊重しなければならぬこと、衡平原理にそって公正、正当な判断を下す必要があること、自らの行動(判断)に責任をもつべきであることを陪審制は市民に教える。それだけではない。これらの結果、陪審制は「人民の判断力の育成、理解力の増強に信じられぬほど役立つ。私の見解ではこれこそがその最大の利点である」(p.188)。
 第2節で民主政がうまく機能しないことがあるが、それは解決可能だとトクヴィルは考えていると論じたことを思い出して欲しい。政治家の失敗をカバーできるのは「民主制の国家では為政者は他に比べて廉直と能力に欠けるとしても、被治者は逆により知識豊かで注意深い」「民衆は自分たちの問題を絶えず自分たちで処理し、権利の擁護に細心の注意を払うから、民衆の利益が指定するある一定の一般的路線から代表が逸脱することを防ぐ」(一下、p.114)からである。陪審制によって身に付けた判事の精神的習性の一部(秩序、形式、論理を尊重する)、育成された判断力、増強された理解力が、民主政の機能不全を防ぐことにつながると考えられる。
 陪審制の効果として最も重要なことは個人主義の蔓延を防ぐことである。「陪審制は市民一人一人をある種の司法職に任ずる。すべての人に、社会に対して果たすべき義務のあることを感じさせ、また統治に参加しているという実感を与える。自分自身の仕事とは別の事柄への関与を強いることで、社会の錆とも言うべき個人的利己主義と戦うのである」(p.188)。言い換えれば、「自分自身と家族、友人からなる小さな社会に閉じこもり、小さな社会で安楽に暮らしていくことに関心を寄せ、大きな社会=社会全体について考えなくなる。人々が社会の中で生き、暮らしていくために必要なルールの策定、普及、定着に関心を抱かなくなる」という個人主義を、陪審員として裁判に臨むことを通じて、克服することができる。したがって、隷属への道を歩むリスクが減る。

7.結社

 三番めが結社である。結社=associationとは、共通の目的のために組織される団体のことである。労働組合も、当然、結社である。結社がどのようにして深刻な弊害のリスクを防ぐのか。
「アメリカは世界中で結社をもっとも多く利用する国であり、この有力な行動手段をこのうえなく多様な目的のために使う国である」(一下、p.38)。「アメリカでは、政治的目的で結社をつくる自由に制限がない」(p.42)。政治的結社とは「人々が社会の中で生き、暮らしていく際に、どのようなルールが望ましいのか、その前提としてどういう社会が望ましいのか」を議論し、確定した上で、その共通の目的を実現することを目指して行動する結社だと考えられよう。政治的目的をもたない結社(市民的結社)も自由に設立できる(もちろん、反社会的な、犯罪と関わる結社は論外だと思う)。トクヴィルがアメリカの結社にいかに驚いているかは次の文章からも伝わってくる。
「アメリカ人は年齢、境遇、考え方の如何を問わず、誰もが絶えず団体をつくる。商工業の団体に誰もが属しているだけではない。ありとあらゆる結社が他にある。宗教団体や道徳向上のための結社、真面目な結社もあればふざけたものもあり、非常に一般的なものもごく特殊なものも、巨大な結社もあれば、ちっぽけな結社もある。アメリカ人は祭りの実施や神学校の創設のために結社をつくり、旅籠を建設し、教会を建立し、書物を頒布するため、また僻遠の地に宣教師を派遣するために結社をつくる。病院や刑務所や学校もまた同じようにつくられる。ついには一つの真理を顕彰し、偉大な手本を示してある感情を世間に広めたいときにも、彼らは結社をつくる」(二上、pp.188-189)。
 政治的結社であれ、市民的結社であれ、結社は共通の目的を実現するために結成される団体であり、そこにメンバーとして自発的に参加するということは「家族と友人と共に片隅に閉じこもる」(二上、p.175)ことなく、より大きな社会に対して関心を抱いた結果である。それだけではない。市民は結社の中で「多くの人と出会って、語り合い、話を聞き、そしてありとあらゆる企画に共同で熱中する。彼らは次いでこのようにして得た観念を市民生活に持ち込み、さまざまな用途に役立てるのである」(二上、p.208)。これらの結果、結社は個人主義から市民を解放し、隷属への道を歩むことを防ぐ一つの手段ともなると考えられる。
 また結社は境遇の平等が生み出す無力さを克服する手段としても機能し、その結果として個人主義の蔓延を防ぐことにつながると私は思う。まずは平等と個人の無力さの関係から論じよう。「平等は人々を互いに独立のものとし、それぞれ自分の意志にのみ従って行動する習慣と好みを馴染ませる。この完全な独立を対等のものに対して私生活の中で絶えず行使しているので、人々はどんな権威をも不満の目で見るように」(二下、p.211)なる。民主社会では個人は誰もが独立し、どんな権威も認めない。私は私以外の個人の権威を認めないように、他人も私の権威を認めない。だから次のようになる。「・・民主的な国民にあっては、市民は誰もが独立し、同時に無力である。一人ではほとんど何をなす力もなく、誰一人として仲間を強制して自分に協力させることはできそうにない」(二上、p.190)。個人は独立し、無力である。どういうことか。先に示したような祭りの実施、神学校の創設、書物の頒布、宣教師の派遣などの事業をしようとしても一人では何もできない。ある目的を実現するために、強制ではなく、目的に賛同する人々が相互に助け合う仕組みをつくる必要がでてくる。言い換えれば「彼らはだから、自由に援け合う術を学ばぬ限り、誰もが無力に陥る」(二上、p.190)。だからこそ互いに助け合わねばならず、その結果として小さな社会から脱出し、個人主義に抗う。
 政治的結社は多数の暴政を防ぐ装置としても機能する。「合衆国では一度ある政党が政権を握ると、すべての公権力がその手に落ちる。個人的な友人があらゆる公職に就き、あらゆる機関の権限をほしいままにする」(一下、p.44)。多数の暴政へと結びつく危険が生じる。少数派は社会のルールの策定に有効な発言ができにくくなるという事態が生じるだけではない。第2節で論じたように「魂を襲われる危険も生じる」。あえて再引用しよう。「私と違う考えをもつのは自由だ。生命も財産もみな保障する。だが、この日からお前はわれわれの内で異邦人となる。政治的権利は保障されるが、お前には意味のないものとなろう。お前が同胞市民に投票を訴えても、決して支持は得られないし、せめて自分を尊重してくれと頼んでも、彼らはなお拒絶の意を示すであろう。お前は人間の一人ではあるが、人間の権利は失う」(一下、p.155)。
 だからこそ、「少数派はその精神の力のすべてを挙げて、多数派の物質的力による抑圧に抗せねばならぬ」(一下、p.44)。そのために政治的結社をつくる。「アメリカでは、少数派の市民が結社をつくるのは、第一に自分たちの数を誇示し、それによって多数派の精神的権威を弱めるためである。第二の目的は、多数派に働きかける最適の論法は何かを論議してこれを見出すことである。というのも、多数派の人々を味方に引きつけ、自分たちの名で権力を行使する希望を、少数派がいつまでも失わないからである」(pp.46-47)。前者が魂を守るためであり、後者はいつか多数派になるための準備である。
 ところで、結社を運営していく過程で、メンバーたる市民は組織運営のノウハウを学ぶ。次のようである。「・・長期にわたってこの種の結社の一員であれば、どうすれば大勢の人間の間に秩序を維持することができ、彼らを同じ目的に向けて一致して規則正しく進ませるにはどんなやり方をすればよいか、そのコツを必ずや発見するであろう。人はそこで自分の意志を他のすべての人の意志に従わせ、個人の努力を共通の行為に従属させることを学ぶのであり、これらはすべて政治的結社に劣らず市民的結社においても知るべきことなのである。」(二上、pp.204-205)。共通の目的を実現するためにメンバーの多様な意見を調整して、合意を図り、効率的で有効な行動を企画、実施していく術、つまり組織運営のノウハウを学んでいくのである。

8.民主政の利点と弊害、そして三つの装置

 民主政は自由と平等という二つの崇高な原理によって支えられているという利点だけではなく、貴族社会では見られなかった「社会全体に倦むことのない活動力、溢れるばかりの力とエネルギーを行き渡らせる」という利点を持つ。この利点を十分に活かすためには隷属への道、多数の暴政を防ぐ努力が必要となる。
 大多数の市民が少数の権力者に隷属し、平等に不自由となる事態は、境遇の平等がもたらす個人主義の蔓延がまねく。多数の暴政は多数派の権威を受容する結果、生じる。民主社会では、個人は平等で互いに独立しており、他者の権威を認めることはない。しかし、だからこそ、多くの市民が同じ観念を持っているならば、その観念を盲目的に信用すること(多数派の権威の受容)になる。そのことで生まれる多数の暴政によって少数派の自由と平等が脅かされる。
 これらの弊害の発生を防ぐ装置が地方自治、陪審制、結社である。
 基礎自治体であるタウンでは住民による民主主義に基づく自治が根付いている。タウンで生き、暮らしていくために必要なルールを自分たちで決定し、自分たちで運用している。そこでは事実として少数の権力者への隷属は見られない。地方自治を市民個々人が実践していく過程で、市民は互いに助け合うことの大切さを学ぶ。その結果、個人主義の蔓延を防ぎ、隷属への道を歩むリスクが減る。タウン内での多数の暴政が起こるリスクは少ないのではないかと考えられる。タウンで定められるルールは生活に密接に関係するものであり、それらをめぐって住民の間で意見に大きな違いがあるとは思えないからである。
 タウンを超えるルールについても隷属への道を辿るリスクは少ないと思われる。州議会で定められる複数のタウンに共通するルールは、生活という点でも、費用負担という点でもタウンの住民に直接関係する。地方自治の実践で個人主義から解放されている住民が、自ら関係することに、とりわけ不利なことに黙って従うとは思えない。ただ、多数の暴政は、たとえば多数派タウンと少数派タウンという構図で生じる恐れがあるかもしれない。
 陪審制は市民をある種の司法職に任ずるものであり、すべての市民に社会に対して果たすべき義務があることを感じさせる。さらに、社会で定めたルールの解釈、運用を自らが行い、紛争の処理に関与するのであり、言い換えれば「統治」に参加していることを実感させる。日常から離れて、社会のために行動するのであり、「自分自身と家族、友人からなる小さな社会」から市民を解き放つ、つまり個人主義を克服する機会を与え、隷属への道から市民を遠ざける。
 陪審制の影響はそれだけではない。市民に秩序、形式、論理を尊重する姿勢を身に付けさせ、社会を律するルールを学ぶとともに公正、正当な判断を下す必要があることを教え、自らの行動(判断)に責任をもつことを陪審制は市民に教える。これらの結果、陪審制は市民の判断力の育成、理解力の増強に役立つ。この判断力、理解力が民主政の機能不全を防ぐことにつながると考えられる。
 結社は政治的結社であれ、市民的結社であれ、共通の目的を実現するために結成されるものであり、そこに参加し、多くの人と出会い、話し合うことは「自分自身と家族、友人からなる小さな社会」から飛び出ることである。さらに目的に賛同する人々が相互に助け合うことによって、境遇の平等がもたらす無力さを克服する手段としても機能する。これらの結果、個人主義が蔓延することなく、隷属への道が遠ざかる。
 政治的結社は多数の暴政を防ぐ装置としても機能し、政治的少数派の魂を救い、多数派に変わる準備を可能にする。
 結社の機能はそれだけではない。結社はそこに参加する市民に、組織内の多様な意見を調整して、合意を図り、組織をうまく運営していく上でのノウハウを学ぶ機会を与える。

9.地方連合会、地域協議会への含意

 民主政の利点と弊害、弊害を防ぐ三つの装置に限って、トクヴィルの「アメリカのデモクラシー」を、私なりに読み解いてきた。
 トクヴィルの枠組みを使って、地方連合会、地域協議会の役割を次のように再評価することはできないだろうか。
 連合の地方組織は、少なくない推薦議員を持ち(47地方連合会の平均県議会議員数は10.5人、281地域協議会の平均市町村会議員数は7.35人)、推薦首長をもつ組織も多く(地方連合会では33組織(支持・友好を含めると40組織)、地域協議会では195組織)、多くの地方組織はこれらの政治的資源を活用して自治体に政策制度要請を行っている(地方連合会では46組織、地域協議会では207組織)(中村 2024)。これ以外にも、自治体に設置される審議会、研究会に組合役員を派遣している地方組織も多い。要するに、地方連合会、地域協議会は地方自治に関与している。実際に候補者の推薦を決定し、政策協定を締結し、政策制度要請を決定、提出し、そのフォローアップをするのは、地方組織の執行部を構成する組合役員である。彼らのほとんどすべては企業別労働組合出身である。彼らは地方組織の役員として地方自治に関わることを通じて、自分たちのことだけ(自分自身や企業別労働組合の利害)を考えるのではなく、住民たちの生活や福祉のこと考えるようになる。個人主義(企業別労働組合を第一に考える思考も含め)から抜け出ることができる。また、地方政治において一定の発言権を持つことによって、多数の暴政に対する防波堤としても機能しうる。
 地方連合会も地域協議会も結社であり、地域に住み、暮らす労働者や住民の労働条件や生活条件の維持向上という共通の目的を有する。春闘や地域ミニマム闘争(個別賃金調査を活用して、都道府県単位の地域ミニマム賃金を設定し、それ以下の賃金をなくしていこうという運動)では、ターゲットの中心は組織メンバーである。だが、地域別最低賃金の決定と周知、政策制度要請、未組織労働者の組織化、労働生活相談などの運動では、組織メンバーに限らず、未組織労働者や住民をも対象としている。組織の外にいる労働者や住民をも視野に入れた運動を進めているのである。地方組織の役員は自分たちのことだけではなく、メンバーではない人々のために、彼らの直面する課題について話し合い、対応策を考え、運動を進めていく。ここでも地方組織は個人主義、企業別労働組合主義の蔓延を防ぐ機能を果たし得る。さらに、労福協の場で協同組合やNPOと協力して、メンバー以外の労働者や市民の生活や福祉の向上を目指す活動に関与していくことによって、労働組合の枠をも越えることができる。
 地方組織の役員の中には労働審判員を務める者もいるとは思うが、詳細はわからない。したがって、陪審制が民主社会の弊害を防ぐ装置として機能しているのと同様の機能を労働審判が果たし得ているのかはわからない。この点を解明することは今後の課題としたい。

参考文献

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圭介教授の談話室